日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

現代語訳

幸田露伴「運命」21

【訳】 建文元年二月、諸王に対し詔があり、文武の役人を切り詰め、官制を改定させないようにした。これもまた諸藩を抑えるための一つの方法であった。夏四月西平侯沐晟が岷王梗が法を破ったことを奏した。よってその護衛を削り、その指揮官宗麟を死刑にし、…

幸田露伴「運命」20

【訳】 諸国がいよいよ削奪されるのが明らかになると十二月になって前軍都督府断事の高巍という者が上書して政を論じた。巍は遼州の出身で節を守り文章が上手かった。才能はそれほどでもないが性格良く、母の蕭氏に仕えて孝行し称賛され洪武十七年表彰された…

幸田露伴「運命」19

【訳】 帝のそばには黄子澄と斉泰がいて、諸国を削奪しようとする。また燕王のそばには僧の道衍と袁珙がいて秘謀を巡らす。両者の関係はもうこんな風で、~。諸王に不穏な動きがあるとの噂が朝廷に聞こえることが頻繁だったので、ある日帝は子澄を呼んで、昔…

幸田露伴「運命」18

【訳】 帝のために密かに計画する者は誰か。黄子澄と斉泰である。子澄のことは既に書いた。斉泰は~出身で洪武十七年よりようやく出仕した。建文帝が帝位につくと子澄とともに帝の信頼を得て国政に参加した。諸王が入京し会葬するのを禁じた時諸王は皆斉泰が…

幸田露伴「運命」17

【訳】 太祖が崩御したのは閏五月で、諸王が都に入るのを許されず不快に思いつつ帰国した後、六月になって戸部侍郎卓敬なる者が内密に帝に上書した。卓敬は字を惟恭といい、書を読めば~と言われたほど聡明で、天文地理より法学暦学兵学刑法に至るまで極めな…

幸田露伴「運命」16

【訳】 しかしながら、太祖の遺詔は考察すべき点もまた多い。皇太孫允炆は天下の民が心を寄せているので皇位を継ぐようにというのは何故か。既にもう皇太孫なのである。たとえ遺詔がなくとも皇位を継ぐのみであろう。わざわざ皇位を継ぐようにというのは朝廷…

幸田露伴「運命」15

嗚呼、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕の情景、百歳の下、人をして欽仰せしむるに足るもの…

幸田露伴「運命」 14

太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同閏五月西宮に崩ず。其遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度と無く畏るべき危険の境を冒して、無産無官又無家、何等の恃むべきをも有たぬ孤独の身を振い、終に天下を一統し、四海に君臨し、…

幸田露伴「運命」13

七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承けて其御子允炆皇太孫の位に即かせたもう。継紹の運まさに是の如くなるべきが上に、下は四海の心を繫くるところなり。上は一人の命を宣したもうところなり、天下皆喜び…

幸田露伴「運命」12

太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙に之を論じて、然る可からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其歳閏九月、たま〳〵天文の変ありて、詔を下し直言を求められにければ、山西の葉居升というもの、上書して第一には…

幸田露伴「運命」11

建文帝の国を遜らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋元傾覆の所以を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆く四方に…

幸田露伴「運命」10

はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於て宥め軽めらるゝこと多かりき。太子亡せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太…

幸田露伴「運命」9

明の建文皇帝は実に太祖高皇帝に継いで位に即きたまえり。時に洪武三十一年閏五月なり。すなわち詔して明年を建文元年としたまいぬ。御代しろしめすことは正しく五歳にわたりたもう。然るに廟諡を得たもうこと無く、正徳、万暦、崇禎の間、事しば〳〵議せら…

幸田露伴「運命」 8

賽児は蒲台府の民林三の妻、少きより仏を好み経を誦せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之を郊外に葬る。賽児墓に祭りて、回るさの路、一山の麓を経たりしに、たま〳〵豪雨の後にして土崩れ石露われたり。これを視るに石匣なりければ、就いて窺いて…

幸田露伴「運命」7

女仙外史の名は其の実を語る。主人公月君、これを輔くるの鮑師、曼尼、公孫大娘、聶隠娘等皆女仙なり。鮑聶等の女仙は、もと古伝雑説より取り来って彩色となすに過ぎず、而して月君は即ち山東蒲台の妖婦唐賽児なり。賽児の乱をなせるは明の永楽十八年二月に…

幸田露伴「運命」6

女仙外史一百回は、清の逸田叟、呂熊、字は文兆の著すところ、康熙四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒る。其の書の体たるや、水滸伝平妖伝等に同じと雖も、立言の旨は、綱常を扶植し、忠烈を顕揚するに在りというを以て、南安の郡守陳香泉の序、…

幸田露伴「運命」5

我が古小説家の雄を曲亭主人馬琴と為す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝の雄大、弓張月の壮快、皆江湖の嘖々として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優るあるも劣らざるものを侠客伝と為す。憾むらくは其の叙するところ、蓋し未だ十の三四を…

幸田露伴「運命」4

古より今に至るまで、成敗の跡、禍福の運、人をして思を潜めしめ歎を発せしむるに足るもの固より多し。されども人の奇を好むや、猶以て足れりとせず。是に於て才子は才を馳せ、妄人は妄を恣にして、空中に楼閣を築き、夢裏に悲喜を画き、意設筆綴して、烏有…

幸田露伴「運命」3

定命録、続定命録、前定録、感定録等、小説野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭も、悉く天意に因るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏れて、巫覡卜相…

幸田露伴「運命」2

秦の始皇帝、天下を一にして尊号を称す。威燄まことに当る可からず。然れども水神ありて華陰の夜に現われ、璧を使者に托して、今年祖龍死せんと曰えば、果して始皇やがて沙丘に崩ぜり。唐の玄宗、開元は三十年の太平を享け、天宝は十四年の華奢をほしいまゝ…

幸田露伴「 運命」1

世おのずから数というもの有りや。有りといえば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、湯の徳これを済えば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。 世の中に果たして天命というものはあるのであろ…