日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

車輪虫

 おいきゅうりはどこにいった
 その日散歩から帰ってきた柏原は妻に尋ねた
 きゅうり? 流しで朝食の準備をしていた留美は振り向いた
 前にここにたくさんあったろ どこにいったんだ
 もう全部漬けちゃったわよ 明日にはおいしく食べられるけど なんで?
 柏原は答えずに冷蔵庫を閉めるとツカツカと妻の隣までくると流しを覗いた
 ちょっと何?
 あった
 彼は三角コーナーからひょいと小さなものをつまみ上げた
 浅漬けした際いらないので捨てていたきゅうりのヘタであった
 そんなものどうするの
 ちょっとな 
 彼は台所を出ると足早に二階に上がっていった。
 また変なもの拾ってきたな
 留美は直感した。
 夫が早朝の散歩を始めて1ヶ月になる
 会社の健康診断でメタボ気味だというので始めこれまで雨の日も一度も休んだことはなく、毎朝早起きして近所のコンビニに新聞を買いに行くというのが日課になっている
 毎日往復で30分ほど歩くおかげか、本人は体調がいいといって喜んでいる
 それはいいのだがそのたんびに色々なものを拾ってくる。
 最初はコンビニでコーヒー飲んだついでにと言ってスティックシュガーを三つもらってきた
 無料だからというのだがそれからずっともらってきて今は30袋にもなった
 それが止んだと思ったらその次には石ころを拾ってきた
 ここに帯が入ってるだろ、こういうのは珍しいとしきりに感心するが留美から見るとどう見てもただの石である
 柏原は文鎮にするからといって今では自室に10数個も転がっている
 石の次は座布団を拾ってきた。近所のゴミ置き場に捨ててあったらしい、まだ新品同様だ、勿体無いから使うと言ってこれまた自室に置いてある
 みっともないしあんまりやってると不審者扱いされるからやめるよう注意したのはつい昨日のことだ
 今度はなんだろう
 留美は皿を洗う手を休めて考えた
 きゅうりというからバッタでも捕まえて来たのだろうか エサにするつもりなのかもしれない ああいやだいやだ
 留美は夫と違い、生まれ育ちも田舎だったが小さい頃から虫は大の苦手だった
 少しは私の話も聞いてくれたらいいのにホント言うこと聞かないんだから
 留美はため息をついてがちゃがちゃと皿を洗い出した。

 

柏原は階段を上がり自室に戻った。
 初夏とはいえまだ朝の6時半だから部屋の中は薄暗い。
 ツカツカと机にいきスタンドのスイッチを入れる。それから机の上の段ボール箱を覗き込んだ。
 箱の隅に小さな虫がうずくまっている
 体長は5センチほどで 全身が黒く光沢があり丸っこくそこだけ見るとカナブンそっくりだ
 柏原は机上の老眼用の眼鏡をかけると虫を指でつまみ上げ、あかりに近づけて観察した。

本来なら後肢があるところに一対の小さな車輪が付いている。

車輪といっても自転車のようなスポークなぞはついておらず、円盤が胴の両側にくっついているだけのチャチな作りだ。円盤は硬くそれなりの強度はあるようだが車輪と胴を繋ぐ軸も細く頼りなげで、無論軸受なぞもない。みれば見るほど駄菓子のおまけのクルマのそれと大差ない
 柏原は虫を箱に戻すと持ってきたきゅうりのヘタを虫の目の前においた
 虫は気づいた様子もない。相変わらずじっとしたままだ。
 柏原は箱を机の横のテーブルの上に移すとパソコンに向かった。今は会社の繁忙期で家に持ち帰って仕事をしているのだが、新しくインストールしたソフトに今だに慣れず苦労していた
しかも老眼のせいかすぐ目が疲れてしまう。
ため息をついて画面から目を離し箱を覗いてみるといつの間にか虫はきゅうりに口をつけていた

短い触覚がかすかに揺れている

仮にこの車輪が回ったとしても

柏原は観察しながら思った。

凸凹のある地面を移動するには不利だろう。車輪というのは本来平坦なところを移動するためのものだ。一体なぜこんなものがついているのか
彼は改めて不思議に思った。

 

 二日後一人息子の陸が帰省した
 帰省したといっても
 近いうちに大学の陸上部の合宿に行くから明日には帰るという
 留美も彼も久々に帰ったのだからしばらくゆっくりしていけというがもう約束したからとにべもない
 せわしないことだ
 柏原は思ったがそれ以上何も言わなかった
 その晩彼がまたパソコンに向かって仕事していると陸が夕食に呼びにきた
 柏原がすぐ行くとキーボードを叩きながらいうと

うわ、なにこれ

机の上の箱を覗き込んだ陸は興奮して叫んだ
 シャリンムシじゃないのこれ。 はじめてみた
 よく知ってるな
 以前テレビで特集してたから。 絶滅寸前だとか言う奴でしょ。
 絶滅?
 柏原は振り向いた
 うん。田舎でもほとんど見なくなったとか言ってた。どこで見つけたのこれ。
 3日くらい前に公園の近くの木の下で見つけた。散歩の途中だよ 珍しいからハンカチにくるんで持って帰った。
 へえ すごいラッキーだね。えさはきゅうりでいいの?
 そいつの好物だからな  昔からそうなんだ
 詳しいんだね
 小学生の頃、家の近くの神社にいくらでもいたからな、よく友達と捕まえて遊んだもんだ
 ふうん
 陸は少し驚いた顔つきだった
 時々読書する以外は特にこれといった趣味もない様子の父親にそんな子供時代があったのが意外だったのだろう。
 かあさんにはいうなよ
 いいけど、飼ってることまだ知らないの。
 わからんが取り合えず何も言わんな。
 とっくに知ってて言わないだけじゃない。まあいいや、とりあえず早く下りて来てよ。
 先に食っててくれ。まだキリがつかん。そうだな、あと20分経ったら行く。
 わかった
 陸が去った後 柏原は車輪虫についてネットで調べた。確かに急激に減少して絶滅が危惧されているとある。以前調べたときは生態や餌のことばかりでこうした情報は見落としていた。
 リンク先を見ていくうちにいつの間にかオークションサイトに出た
 見ると一匹数万円もの売値がついている
 無理もないか
 彼は呟いた
 車輪のついた生き物自体珍しいからみんな集めたがるし、今は絶滅寸前だからな。一人があそこで見つけたとネットで発信でもすればすぐ広まって人が押しかけるだろうし。
陸のいう通り確かに自分はラッキーだったのだ

 さらに調べるうちあるページで手が止まった
 「車輪虫について なぜ車輪で移動する虫はいないのか」というタイトルのとある大学教授の書いた論文だった。
 彼は素早く目を通した
 まず車輪虫の生態について概説があり、それから本論としてこの虫の車輪はなぜ回らないのか、なぜ車輪を回転させて移動する虫がいないのかを考察している。

しかし本論とは言っても前者についてはわずか1ページほどで、後者についての考察が論文の大半を占めている。そうしてエネルギー効率がどうとか代謝がどうとか数式やグラフを並べて車輪を移動方法とする虫のいない理由を説明している。最後にまとめとしてこんなことが書いてある

「以上のようにむしろ この車輪は移動手段としては全く役に立っておらず、それどころか虫にとっては移動の障害となっているばかりでなくエネルギーを無駄に消耗させる「お荷物」でしかない。これは古くからよく知られたことで英名でもfifth wheelbug「第五の車輪虫」と呼ぶくらいである(fifth wheelには役立たずといった意味がある)。近年絶滅の危機が叫ばれるが、むしろこうしたハンデを生まれながら背負っている虫が今まで絶滅しなかったことの方が奇跡であろう。絶滅しなかった理由については古来より諸説あるが今なお不明である。」

 彼は椅子から立ち上がると床の上の箱をのぞいた

3日前できるだけ住んでいるところに近い方がいいだろうと落ち葉を箱に敷き詰めた

虫はその葉の上でじっとしている
 いつ見ても体全体に比べ輪がアンバランスなほど大きい
 指でつまみ上げると 虫はノロノロと前足をバタつかせた
 彼は車輪に指先で触れ回そうとした
 まずは右、それから左
 しかし無駄だった。円盤は固定されたように一向に回ろうとしなかった

彼は自分が小学生のだった頃を思い出した
あの頃には近所の神社の裏の林にこの虫がいっぱいいた。
 たいてい積もった落ち葉の下に潜んでおり、動きがのろいから捕まえるのは簡単だった。
 彼は友人たちと虫を捕まえてはその車軸を次々に折り、車輪だけを集めた
 車輪を無くした虫は前脚だけで逃げるのだがそれがやたらと速かった
 あるいは輪がなくなった痛みがそうさせていたのかもしれないが輪があったときとは雲泥の差だった。
 そのせいもあって柏原たちには虫をいじめているという気は少しもしなかった。 むしろ邪魔な荷物をとって軽くしてやった気分だった

彼のクラスに岡村という この虫の車輪を誰よりも集めている同級生がいた。

 ある日学校に大きな巾着を持ってきて中を見せた。それには虫の車輪がいっぱい詰め込んであった。彼は自慢そうにそれを振ってじゃらじゃらと鳴らした
 どうやってそんなに集めたのかその場にいた彼を含めた全員が聞き出そうとしたが彼は何も答えなかった。噂では父親が会社の社長で金持ちだから人を使って集めさせたという話であった。

あの時のじゃらじゃらという音と尖った顎をあげた自慢げな顔つきはまだはっきり覚えている

その彼にも中学卒業以来ずっと会っていない
 ご飯よ
 突然階下から留美の声が聞こえた

明らかに苛ついている。
 はっとして彼は虫を箱に戻すと階下へ降りていった。

 

 一週間経った

その間に虫は少しも餌を食べなくなり次第に衰弱してきた
 柏原はきゅうりの代わりにキャベツやレタスさらにはブロッコリーを与えたが、少しも食べようとはしなかった
 指でつつくと短いショカクをひょいと動かすが、それさえだるそうである。

 翌朝散歩から戻った柏原は虫の入った箱を持って庭に出た
 そうして玄関近くの草むらに虫を放した。
 箱から滑り落ちた虫は逆さまになって前足をばたつかせた
 一向に起きあがる気配がないので彼がつまんでかえしてやるとやっと前へ動き出した
 なんてことない砂や土くれが柏原の目にはいつになく大きく見えた。 虫は車輪をずりずりとひきずっていく
 そのうち右の車輪が小石に引っかかった
 虫はそれでも強引に前へ行こうとする。小石とは言っても虫からすると大きい。車輪がいよいよ乗っかると虫の体は傾いて今にもひっくりかえりそうになった。仕方なく柏原が石をどけてやろうと手を伸ばした瞬間、石の上の車輪がばたんと地に落ちた。

虫はそれから急に動かなくなった

何やら周囲を伺っているらしい。

全く変な奴だ
じっと覗き込んでいた柏原は思わずくすくす笑い出した


 その晩も柏原は遅く帰ってきた
 疲れが澱のように溜まっていた。とても仕事の続きをする気にはなれず夕食もそこそこにベッドに入ったが、なかなか寝付けない 

明け方近くになってようやくとろとろ眠り、夢を見た
 彼は古代ローマのコロシアムにいた。銀色の甲冑に身を包み、満員の観客が見守る中、騎手として当時の戦車(チャリオット)を走らせている
 しかし彼の乗る二輪車を牽かせているのは馬ではなく、馬ほどもある大きな車輪虫である
 虫の車輪はごろごろ、砂埃をあげながら勢いよく回り、結構なスピードですこぶる気持ちいい
 気づくといつのまにかもう一台戦車が彼の近くを走っている

陸だ

彼と同じような格好をして同じように虫を駆けさせている
 愉快になって互いにハイヤーなどと叫んでどっちが速いか競っているうちに目が覚めた
 枕元の時計を見ると6時すぎ
 留美はもう起きて朝食の用意をしているらしい 階下の台所あたりから物音が聞こえてくる
 彼は上半身だけ起こすとさっきの夢のことを詳しく思い出そうと努めた

次に放した虫と夢との関係を考えた

それからさらにフロイトだの夢判断だのことを考えた
 首をかしげていると妻がご飯よと呼ぶ声が階下からきこえた
 朝食を食べながら 彼は虫を草むらに放したことを伝えた
 あのまま放っておいたら死ぬだけだろうと思ったから戻したと言うと留美は興味なさそうに聞いていた。しかしもう変なもの拾ってこないで下さいよと念を押すのを忘れなかった。
 柏原は黙然としてくった
 食ってしまうと言った。
 やっぱり虫は自然の中で暮らすのが一番だな
 当たり前でしょ。
 留美はそっけなく言うときゅうりの浅漬けをぼりぼり音を立てて噛んだ。