日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」21

【訳】

建文元年二月、諸王に対し詔があり、文武の役人を切り詰め、官制を改定させないようにした。これもまた諸藩を抑えるための一つの方法であった。夏四月西平侯沐晟が岷王梗が法を破ったことを奏した。よってその護衛を削り、その指揮官宗麟を死刑にし、王はその身分を奪い庶民とした。また湘王の柏が~むやみに人殺しをするので詔を出してこれを非難し、兵を送って捕らえさせた。湘王はたくましく~。彼が言うには、昔の大臣は役人に降格されると多くが自決したと。私は~の子であり、~して王となった、どうして~の手にかかり生活できるものかと。そうしてついに宮殿を閉じて焼身自殺した。斉王の榑もまた告げ口によって廃位せられ庶民となり、その代わりに帝となった桂もついに廃せられて庶民となり、大同に幽閉させられた。
燕王は初めから世間から注目されていたし、威信や人材も群を抜き、将来天子となることを期待する者も居たし、またひそかに異人術士を育て、勇士と強兵を蓄えており、人も疑い、〜朝廷と燕はついに双方両立することのできないほどの勢いとなった。かくして三十一年の秋、周王の橚が捕らわれたのを見て燕王はついに腕の立つ者を選んで護衛にし、極めて警戒を厳しくした。だが斉泰と黄子澄はもとより燕王を容認するつもりなどない。たまたま北辺に侵入する敵があったとの知らせを好機として、国境を守るを名目に燕の護衛兵に~その喉元を押さえようとして工部侍郎張昺をもて北平左布政使となし、謝貴を都指揮使となして燕王の動向を探らせ、巍国公徐輝祖、曹国公李景隆をして謀議して燕を~。

 

※訳文中の〜は不明。

 

【原文】

建文元年二月、諸王に詔りして、文武の吏士を節制し、官制を更定するを得ざらしむ。此も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月西平侯沐晟、岷王梗の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮宗麟を誅し、王を廃して庶人となす。又湘王柏偽りて鈔を造り、及び擅に人を殺すを以て、勅を降して之を責め、兵を遣って執えしむ。湘王もと膂力ありて気を負う。曰く、吾聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、豈能く僕隷の手に辱しめられて生活を求めんやと。遂に宮を闔じて自ら焚死す。斉王榑もまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王桂もまた終に廃せられて庶人となり、大同に幽せらる。 

燕王は初より朝野の注目せるところとなり、且は威望材力も群を抜けるなり、又其の終に天子たるべきを期するものも有るなり、又私に異人術士を養い、勇士勁卒をも蓄え居れるなり、人も疑い、己も危ぶみ、朝廷と燕と竟に両立する能わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王橚の執えらるゝを見て、燕王は遂に壮士を簡みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容す能わず。たま〳〵北辺に寇警ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞を出でしめ、其の羽翼を去りて、其の咽喉を扼せんとし、乃ち工部侍郎張昺をもて北平左布政使となし、謝貴を以て都指揮使となし、燕王の動静を察せしめ、巍国公徐輝祖、曹国公李景隆をして、謀を協せて燕を図らしむ。