日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」11

建文帝の国を遜らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋元傾覆の所以を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以て帝室に藩屏たらしめ、京師を拱衛せしめんと欲せり。是れ亦故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥外に傲り、奸邪間に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能わず、宗廟祀られざるに至るべし。若し夫れ衆く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣勢を得るの隙無し。こゝに於て、第二子樉を秦王に封じ、藩に西安に就かしめ、第三子棡を晋王に封じ、太原府に居らしめ、第四子棣を封じて燕王となし、北平府即ち今の北京に居らしめ、第五子橚を封じて周王となし、開封府に居らしめ、第六子楨を楚王とし、武昌に居らしめ、第七子榑を斉王とし、青州府に居らしめ、第八子梓を封じて潭王とし、長沙に居き、第九子杞を趙王とせしが、此は三歳にして殤し、藩に就くに及ばず、第十子檀を生れて二月にして魯王とし、十六歳にして藩に兗州府に就かしめ、第十一子椿を封じて蜀王とし、成都に居き、第十二子柏を湘王とし、荊州府に居き、第十三子桂を代王とし、大同府に居き、第十四子楧を粛王とし、藩に甘州府に就かしめ、第十五子植を封じて遼王とし、広寧府に居き、第十六子を慶王として寧夏に居き、第十七子権を寧王に封じ、大寧に居らしめ、第十八子楩を封じて岷王となし、第十九子橞を封じて谷王となす、谷王というは其の居るところ宣府の上谷の地たるを以てなり、第二十子松を封じて韓王となし、開源に居らしむ。第二十一子模を瀋王とし、第二十二子楹を安王とし、第二十三子桱を唐王とし、第二十四子棟を郢王とし、第二十五子を伊王としたり。藩王以下は、永楽に及んで藩に就きたるなれば、姑らく措きて論ぜざるも、太祖の諸子を封じて王となせるも亦多しというべく、而して枝柯甚だ盛んにして本幹却って弱きの勢を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝を授けられ、歳禄は万石、府には官属を置き、護衛の甲士、少き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服車旗邸第は、天子に下ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦至れりというべし。且つ元の裔の猶存して、時に塞下に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中に専制し、三護衛の重兵を擁するを得せしめ、将を遣りて諸路の兵を徴すにも、必ず親王に関白して乃ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦大なりというべし。太祖の意に謂えらく、是の如くなれば、本支相幇けて、朱氏永く昌え、威権下に移る無く、傾覆の患も生ずるに地無からんと。太祖の深智達識は、まことに能く前代の覆轍に鑑みて、後世に長計を貽さんとせり。されども人智は限有り、天意は測り難し、豈図らんや、太祖が熟慮遠謀して施為せるところの者は、即ち是れ孝陵の土未だ乾かずして、北平の塵既に起り、矢石京城に雨注して、皇帝遐陬に雲遊するの因とならんとは。

 


建文帝が譲位をせざるを得なくなった最初の原因は太祖が自分の子ばかりを諸侯にし、また与えた領地が広く、大きな権力を与えたことである。太祖が天下を統一したとき、前代の宋や元が滅亡した理由を考えて天子一族が孤立するのは国が弱体化する原因だと考え、子に諸国を治めさせ軍事力を与え、これによって帝を守り、都を守ろうとした。これは理由がなかったわけではない。軍が他の手に渡り、金銭と穀物が自分らのものにならず、将軍が外で威張って、奸物がその間で私欲を満たせば、大事が起こっても都や城を守ることはできないし、宗廟も祀られることはなくなる。もし多くの諸侯を配置し、子弟を王とすれば皇族は天下に満ちて栄え、臣下が強大になる隙は無くなる。

ここにおいて、第二子樉を秦王に封じ、藩に西安に就かしめ、第三子棡を晋王に封じ、太原府に居らしめ、第四子棣を封じて燕王となし、北平府即ち今の北京に居らしめ、第五子橚を封じて周王となし、開封府に居らしめ、第六子楨を楚王とし、武昌に居らしめ、第七子榑を斉王とし、青州府に居らしめ、第八子梓を封じて潭王とし、長沙に居き、第九子杞を趙王としたが、三歳にして亡くなり、藩に就くことはなく、第十子檀を生れて二月にして魯王とし、十六歳にして藩に兗州府に就かしめ、第十一子椿を封じて蜀王とし、成都に居き、第十二子柏を湘王とし、荊州府に居き、第十三子桂を代王とし、大同府に居き、第十四子楧を粛王とし、藩に甘州府に就かしめ、第十五子植を封じて遼王とし、広寧府に居き、第十六子を慶王として寧夏に居き、第十七子権を寧王に封じ、大寧に居らしめ、第十八子楩を封じて岷王となし、第十九子橞を封じて谷王としたが谷王というのはその居るところ宣府の上谷の地だったからであり、第二十子松を封じて韓王となし、開源に居らしめた。第二十一子模を瀋王とし、第二十二子楹を安王とし、第二十三子桱を唐王とし、第二十四子棟を郢王とし、第二十五子を伊王とした。

藩王以下は永楽帝のとき王となったから論じないが、太祖が自分の子に領地を与え王としたのは数多く、枝葉ばかり生い茂って幹が弱い樹のような勢いに近くなった。明の制度下では親王は金銀財宝を授けられ、禄も万に及び、府には官吏を置き、護衛の兵士は少ない者でも三千人、多い者は一万九千人にもなり、衣服や車それに屋敷は天子より少し劣ってはいるものの、大臣らも伏してお目通りした。皇族を尊び臣下を抑えるのも極まったといっていい。元の子孫がまだいて、時々国境に出没するのでそこに接する諸王に独断で~をもつことができるようにし、武将に徴兵させる際も必ず親王に~して~とした。諸王に権力を与えること実に大であった。太祖の考えではこうしておけば中央も地方も互いに助け合い、朱氏長く栄え、権力も下々の者に移ることなく、政権転覆の危険を憂うこともなくなるということであった。太祖は智恵と見識があったので前代の過ちを繰り返すことなく後世のことまで考えた計画を残そうとしたのである。しかし人間の知恵には限界があり天の意志は予測するのが難しい。太祖が熟慮し先々のことまで考えた筈の計画が、太祖の陵墓がまだ造営されたばかりの頃 北京一帯の情勢が怪しくなって天子の居城が襲撃され、皇帝が僻地を転々とする原因になろうとは誠に意外なことだった。