日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」12

太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙に之を論じて、然る可からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其歳閏九月、たま〳〵天文の変ありて、詔を下し直言を求められにければ、山西の葉居升というもの、上書して第一には分封の太だ侈れること、第二には刑を用いる太だ繁きこと、第三には治を求むる太だ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈を論ずるに曰く、都城百雉を過ぐるは国の害なりとは、伝の文にも見えたるを、国家今や秦晋燕斉梁楚呉閩の諸国、各其地を尽して之を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜ぎ、之に賜うに甲兵衛士の盛なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世の後は尾大掉わず、然して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則ち其の怨を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則ち険を恃みて衡を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚しければ則ち間に縁りて而して起たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗父兄弟子孫なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫なり。然るに世を易うるの後は迭に兵を擁して、以て皇帝を危くせり。昔は賈誼漢の文帝に勧めて、禍を未萌に防ぐの道を白せり。願わくば今先ず諸王の都邑の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里を限りたまえと。居升の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験ありて、漢の七国の喩、眼のあたりの事となれるぞ是非無き。

 七国の事、七国の事、嗚呼是れ何ぞ明室と因縁の深きや。葉居升の上書の出ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂というを建てたまい、古今の図書を充て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注の魏観字は杞山というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書の七図漢に叛ける事を講じ聞せたりと答え白す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対う。時に太祖肯ぜずして、否、其は講官の偏説なり。景帝太子たりし時、博局を投じて呉王の世子を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯の説を聴きて、諸侯の封を削りたり、七国の変は実に此に由る。諸子の為に此事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓を撫し、国家の藩輔となりて、天下の公法を撓す無かれと言うべきなり、此の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦し、親しきを親しむの恩を隆んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此の太祖の言は、正に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙くより此意ありたればこそ、其より二年ほどにして、洪武三年に、樉、棡、棣、橚、楨、榑、梓、檀、杞の九子を封じて、秦晋燕周等に王とし、其甚しきは、生れて甫めて二歳、或は生れて僅に二ヶ月のものをすら藩王とし、次いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而して又夙くより此意ありたればこそ、葉居升が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文太子に、七国反漢の事を喩したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯ばかり思いしことの、其身死すると共に直に禍端乱階となりて、懿文の子の允炆、七国反漢の古を今にして窘まんとは。不世出の英雄朱元璋も、命といい数というものゝ前には、たゞ是一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。

 

太祖が自分の子たちを封じすぎていたことは早くからこれを論じてそうすべきでないと主張していた者がいた。洪武九年のことだから建文帝がまだ生まれてない頃のことであった。その年の~九月、たまたま天門の変が起きて、~が詔を出してこれに対し遠慮無く考えを述べるよう求めると、山西の葉居升という者が上書して第一に分封の規模が大きすぎること、第二に刑罰を科することが多すぎること、第三に~を求めるのが速すぎることの三つを述べた。その分封の規模が大きすぎることを論じて言うには城が百を過ぎたら国に害をもたらすとは~にもありますが国は今や~~の諸国を尽くして地を与え、諸王の都城宮室は広狭大小、天子の都に次ぎ、これに与えるに~兵士の精鋭をそろえた。私が怖れるのは、しばらくすると諸王の力の方が強大になって、後になってから領地を取り上げ権力を奪えば怨まれて漢の七国、晋の諸王のようになりましょう。~~。孝景皇帝は漢の高帝の孫であり、七国の王は皆景帝の一族~。そうであるのに当時一度領地を削っただけで兵を集め西に向かった。晋の諸王は皆武帝の~子孫であった。それなのに~後互いに挙兵を擁して皇帝を危険な目に遭わせた。昔~は漢の文帝に災いを未然に防ぐ道を勧めました。どうか、まず諸王の~の制度に制限を加え、衛兵も減らし、支配地を限って下さい。居升の言うところは道理が通っていたが太祖には太祖の考えがあった。彼の説くところは太祖の考えと全く違っていたので、太祖は甚だ喜ばず、居升を獄死させてしまった。居升が上書してから二十年余り、太祖が亡くなって建文帝が立つに及んで、居升の言葉は不幸にも現実となり、漢の七国のたとえ話を眼のあたりにすることになってしまった。

七国のこと、七国のこと、ああなんと明と因縁の深いことであろうか。葉居升が上書を出すのに先立つこと九年前、洪武元年十一月のことであったが太祖は宮中に大本堂というのをお建てになり、古今の図書で一杯にして、儒臣に皇太子および諸王に講義させた。天子の側近でその言行を記録する官職である起居注の魏観、字は杞山という者が皇太子に進講したが、ある日太祖が皇太子に聞くには、最近は儒臣がどんなことを講義したかと問うたところ、皇太子は昨日は漢書の七国が漢に謀反を起こしたことを講義して聞かせてくれましたと答えた。それから話題はそのことになって、太祖はどっちが正しくどっちが間違っているかを問うた。皇太子は間違っているのは七国の方だと承ったと答えた。すると太祖は肯定せず、それは講師の偏見だ、景帝が皇太子のとき博局を投げて呉王の嫡子を殺したことがある、帝となるに及び晁錯の意見を聞き入れて諸侯の領土を削ったのだ。呉楚七国の乱の原因はこれである。このことを講義しようとするなら藩王たる者は上は天子を尊び、下は人民をいたわり、国を守って、天下の公法を乱してはならないと言うべきだ。こうしてこそ皇太子は先祖や子孫と~は王室を助け君臣としての義を尽くすことを知るのだと評したという。この太祖の言葉はまさに太祖が胸に秘めていたことを述べたもので、早くからこの考えがあったからこそそれより二年ほどの洪武三年に樉、棡、棣、橚、楨、榑、梓、檀、杞の九人の子に領地を与え秦普燕周等に王となしたので、中には甚だしくも生まれて二歳、あるいは生まれてわずか二ヶ月の者でさえ藩王として、ついで洪武十一年、同二四年の二回に幼い子を封じ、こうして早くからこういう考えあればこそ、葉居升の献言に怒り、これを獄死せしむるまでに至ったのである。しかも太祖が~皇太子に七国~のことを言い含めた時は、建文帝はまだ生まれてなかった。明の国号が初めて定まったときであった。しかし意外なことは、徳をもって功をなした太祖が熟慮した上でこのように為したことが彼が亡くなった途端に災いをもたらして~の子~を七国の言い伝えの通りに彼を苦しめたことであった。不世出の英雄朱元璋でも、天命というものの前には、ただ一枚の落葉が秋風に舞うように他愛ない存在でしかなかった。