日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

現代語訳

幸田露伴「運命」51

【訳】 魏国公・徐輝祖は投獄されたが屈せず、武臣はみな帰服したのに輝祖は最後まで永楽帝を戴こうとしなかった。帝は大いに怒ったが元勲であり国舅なので死刑にすることはできず、爵を取り上げて私邸に幽閉するだけとなった。輝祖は建国の大功臣であった中…

幸田露伴「運命」50

【訳】 歴史を繙き、戦争のことを記すことにも疲れた。 燕王は挙兵から四年、ついにその志を果たした。これは天意か、人望か、運命か、勢いか、それとも必然の理があったのか。 鄒公瑾ら十八人は殿前において李景隆を殴って半死半生にしたが、なんの益にもな…

幸田露伴【運命】49

【訳】 五月、燕兵は泗州に至った。守将の周景初は降伏した。燕軍は進んで淮河に着いた。盛庸はこれを防ぐことができず、戦艦はみな燕の得るところとなり、盱眙も陥落した。燕王は諸将の建言を排してすぐに楊州に赴く。揚州の守将の王礼と弟の宗は監察御史の…

幸田露伴【運命】48 「霊璧の戦い」

【訳】 こうして対陣し日を重ねるうち、南軍に食料が大量に輸送されるとの知らせが入った。 燕王は喜んでいった、敵は必ず兵を分けてこれを守るだろう、兵が分かれて勢いが弱くなったのに乗じれば支えることなどできはしないといって、そう言って朱栄、劉江…

幸田露伴【運命】47

【訳】 燕軍の戦況は芳しくなく、王も甲をつけたまま数日起居したというものの、将兵の心は一つとなって士気は上がった。それに対し、南軍は連勝したにもかかわらず、士気は下がった。 天意と言うべきか、それとも時運と言うべきであろうか。燕軍が連敗した…

幸田露伴【運命】46

【訳】 ここにおいて南軍は橋南にとどまり、北軍は橋北にとどまり、対峙して数日すると、南軍は兵糧が尽きて、蕪を採って食べはじめた。燕王はいった、南軍は飢えたぞ、さらに一二日して食糧が集まったらこれを破るのは簡単ではない。 そこで千人余りの兵で…

幸田露伴【運命】45

【訳】 建文四年正月、燕の先鋒・李遠は徳州の副将であった葛進を滹沱河に破り、朱能もまた平安の将・賈栄らを衡水に破ってこれを捕虜にした。 燕王はすぐに館陶より河を渡って東阿を攻め、汶上を攻め、沛県を攻めて攻略し、ついに徐州へ進み城兵を威して出…

幸田露伴【運命】44

【訳】 燕王が挙兵して既に三年、戦いに勝ったといっても、得たのは永平・太寧・保定だけで、南軍は出没して止むことがなく、いったん得てもすぐに棄てなくてはならないことも多く、死傷者も少なくなかった。 燕王はここにおいて、ため息をついて言った、毎…

幸田露伴【運命】43

七月、平安は兵を率いて真定より北平に到り、平村に止営した。平村と城との距離は五十里にすぎない。 これを知った燕王の世子は危険を知らせた。燕王は劉江を召して策を問うた。劉江は兵を率いて滹沱河を渡り、旗幟を張り、たいまつを挙げ、大いに軍容を盛ん…

幸田露伴【運命】42

【訳】 四月、燕兵は大名に駐留した。 燕王は斉泰と黄子澄が退けられたのを聞き、書を奉って呉傑、盛庸、平安を召還せられるようにと乞い、そうしなければ撤収はできないと言った。 建文帝は大理少卿・薛嵓を使いにやって、燕王とその将兵たちの罪を許し本国…

幸田露伴【運命】41

【訳】 旗は世子のもとに届いた。 この時、降将の顧成がその場にいて旗を見た。 顧成の先祖は船頭であった。 顧成は偉丈夫かつ勇敢で、怪力の持ち主であり、全身の花文は異様で人を驚かせた。 太祖に従い、そのそばを離れなかった。 昔太祖に従った時、その…

幸田露伴【運命】40

【訳】 呉傑、平安は、盛庸の軍の救援に向かおうとして、真定より兵を率いて出たが、あと八十里というところで盛庸の敗れたことを聞いて真定へ戻った。 燕王は真定の攻めがたいのをみて~と流言して、呉傑らを誘い出した。 呉傑らはこれを信じてついに滹沱河…

幸田露伴【運命】39

【訳】 燕王はついにまた軍を率いて出兵した。 将兵に諭していうには、戦場では死を怖れる者は必ず死に、生を捨てる者は必ず生き残る、おまえたちも力を尽くせ。 三月、盛庸の軍と來河で交戦した。 燕の将譚淵、董中峰らは南軍の将荘得と戦い死に、南軍はま…

幸田露伴【運命】38

【訳】 この戦いのはじめ燕王の軍が出発する際、道衍はいった、必ず勝ちます、ただ両日かかるだけです。 東昌から帰還すると、王は多くの精鋭を失い張玉が戦死したので少し休みたかった。 すると道衍はいった両日とは〜、東昌での戦いはもう終わりました、こ…

幸田露伴【運命】37 「東昌の激戦」

【訳】十二月、燕王は河に沿って南に下った。盛庸は兵を出して後を襲ったが及ばなかった。王はついに臨清に至り、館陶に駐屯し、次に大名府を奪いとり、方向を変えて汶上に至って済寧を奪った。盛庸と鉄鉉は兵を率いてその後を追い、東昌に駐屯した。このと…

幸田露伴【運命】36

【訳】 盛庸ははじめ耿炳文に従い次に李景隆に従ったが~。済南の防御、徳州の回復に才能を認められて平燕将軍となり、陳暉、平安、馬溥、徐真らの上官となって呉傑、徐凱らとともに燕を討つ任に当たった。庸は呉傑、平安に西の定州を守らせ、徐凱を東の滄州…

幸田露伴【運命】35 「済南城の戦い」

【訳】 山東参政の鉄鉉は儒者から身を起こし、かつて疑獄事件を裁判して太祖の信任を得て、鼎石という字をうけたまわった者であった。 北征軍が出ると兵糧を~景隆の軍のもとに赴こうとしている最中、景隆軍が潰滅し諸州の城がみな情勢をみて燕に降伏してし…

幸田露伴【運命】34 「白溝河の戦い」

【訳】 年は改まり建文二年となった。燕では洪武三十三年である。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州を下して大同を攻めた。李景隆は出軍しこれを救おうとしたが燕王はそれより早く居庸関に入って北平に帰ったので、景隆の軍は寒さに苦しみ、移動するに疲れて戦…

幸田露伴「運命」33

【訳】 以前上奏して諸藩を削るのを諫めた高巍は、言が用いられず、ついに天下動乱になったのを嘆いて、書を奉って、私をどうか燕に使わして一言述べさせてくださいと願い、許されて燕に至り、書を燕王に奉った。 その概略はこうである。 太祖が亡くなってか…

幸田露伴「運命」32

【訳】 景隆は大軍功なく、退いて徳州の守りについた。黄子澄はその敗北を帝に報告せず、十二月になってかえって景隆に太子太師の官に就かせた。燕王は南軍を寒さに乗じて奔命に疲れさせようと軍勢を出して広昌を攻めてこれを降伏させた。 【原文】 景隆が大…

幸田露伴「運命」31

【訳】 景隆が炳文に代わると、燕王はその五十万の兵を怖れずに、その~敗兆を指摘して私がこれを虜にするだけだといい、諸将の言を用いずに、北平を世継ぎに守らせ、東に出て、遼東の江陰侯呉高を永平より追い出し、転じて大寧に至って~に入った。景隆は燕…

幸田露伴「運命」30

【訳】 李景隆は大軍を率いて燕王を討とうと北上した。帝は北方を憂う必要はなくなったとして文治に専念し、儒臣の方孝孺らと周礼の制度を討論して日々を送ったがこの間において監察御史の韓郁(韓郁或は康郁)というものが時事を憂い上書を奉った。その内容…

幸田露伴「運命」29

【訳】 景隆の幼名は九江だが、戦功もないのに大将軍となったのはなぜか。黄子澄、斉泰が推挙したのも別に理由のあることであった。 景隆は李文忠の子であって文忠は太祖の姉の子にしてなおかつ太祖の子となった者であった。これに加え文忠は重厚な人柄で学…

幸田露伴「運命」28

【訳】 炳文の一敗は~、帝は炳文が敗れたのを知って怒って用いず、黄子澄の言に従って李景隆を大将軍とし斧鉞を与え炳文の代わりとしたので大事はほとんど去った。景隆は貴族のお坊ちゃんで趙括の類だったからである。趙括を推して廉頗を代えたこと。建文帝…

幸田露伴「運命」27

【訳】 八月、耿炳文らは兵三十万を率いて真定に至り徐凱は兵十万を率いて河間に駐留した。炳文は老将で太祖の創業時の功臣だった。かつて張士誠と戦って長興を守ること十年、大小数十戦を戦って勝たなかったことはなくついに士誠をして~を~太祖が功臣を~…

幸田露伴「運命」26

(訳) 燕王が挙兵した建文元年七月より、恵帝が国を譲った建文四年六月までは戦乱の続いた歴史であって今そのひとつひとつを記すのは面倒だ。詳細を知りたければ明史と明朝紀事本末などを読んで考えればよい。今はただその概略と燕王と恵帝の性格風貌について…

幸田露伴「運命」25

【訳】 煙は盛んに昇り火はついに燃えだした、剣は抜かれて血は既に流された。燕王は堂々と旗を進め馬を出した。天子の暦を使わず、あえて建文の年号をやめて洪武三十二年と称し道衍を参謀とし、金忠を~として機密に参加させ、張玉、朱能、丘福を都指揮僉事…

幸田露伴「運命」24

【訳】 燕王は護衛指揮張玉朱能ら壮士八百人を入れて守らせた。矢も石も未だ飛ばないが~。都指揮使の謝貴は~の兵で王の城を囲み、木の柵で端礼門等の道を断った。朝廷より燕王の爵位を削る詔と王府の官僚を捕らえよという詔が届いた。秋七月、布政使の張昺…

幸田露伴「運命」23

【訳】 天か時か燕王の胸中には暴風吹き荒れ黒雲も飛びたいと欲し、張玉、朱能らの猛将梟雄も眼底に閃光閃いて雷も走るばかりであった。燕府に殺気が満ちるに際して天もまた応じたか、それともそういう時機であったか、強風に豪雨が突然襲った。 ひゅうひゅ…

幸田露伴「運命」22

【訳】 建文元年正月、燕王は長史葛誠〜奏せしめた。誠は帝のためつぶさに燕邸の実情を告げた。ここにおいて誠を~燕に帰らせて内応させた。燕王はさとってこれに備えた。二月になって燕王が参内した。天子の通る道を通り宮殿の階段をのぼって拝せない等、不…