日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」9

明の建文皇帝は実に太祖高皇帝に継いで位に即きたまえり。時に洪武三十一年閏五月なり。すなわち詔して明年を建文元年としたまいぬ。御代しろしめすことは正しく五歳にわたりたもう。然るに廟諡を得たもうこと無く、正徳、万暦、崇禎の間、事しば〳〵議せられて、而も遂に行われず、明亡び、清起りて、乾隆元年に至って、はじめて恭憫恵皇帝という諡を得たまえり。其国の徳衰え沢竭きて、内憂外患こも〴〵逼り、滅亡に垂とする世には、崩じて諡られざる帝のおわす例もあれど、明の祚は其の後猶二百五十年も続きて、此時太祖の盛徳偉業、炎々の威を揚げ、赫々の光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの後なれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを其の是の如くなるに至りし所以は、天意か人為かはいざ知らず、一波動いて万波動き、不可思議の事の重畳連続して、其の狂濤は四年の間の天地を震撼し、其の余瀾は万里の外の邦国に漸浸するに及べるありしが為ならずばあらず。

 建文皇帝諱は允炆、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父懿文太子、太祖に紹ぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢六十五にわたらせ給いければ、流石に淮西の一布衣より起って、腰間の剣、馬上の鞭、四百余州を十五年に斬り靡けて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に燭を失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き萎れたもう。翰林学士の劉三吾、御歎はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君と仰せ出されんには、四海心を繋け奉らんに、然のみは御過憂あるべからず、と白したりければ、実にもと点頭かせられて、其歳の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即ち後に建文の帝と申す。谷氏の史に、建文帝、生れて十年にして懿文卒すとあるは、蓋し脱字にして、父君に別れ、儲位に立ちたまえる時は、正しく十六歳におわしける。資性穎慧温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘りて昼夜膝下を離れたまわず、薨れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾まことに純孝なり、たゞ子を亡いて孫を頼む老いたる我をも念わぬことあらじ、と宣いて、過哀に身を毀らぬよう愛撫せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。

 


明の建文帝が太祖を継いで帝位についたのは洪武三一年~五月のことで詔で翌年を建文元年とするとした。その治世は五年に渡った。しかし諡を得ることなく正徳帝、万暦帝、崇禎帝の間、与えるようという議論はあったが結局与えられなかった。明が滅び清が興ってその乾隆元年になってはじめて恭憫恵皇帝という諡を与えられた。その国の徳が衰え恵みもつきて、内憂外患次々に起こって、滅亡しようとする世には崩御しても諡を与えられない皇帝のいる例もあるが、明の時代はその後なお二五〇年も続いて、この時~の偉業は炎のごとく燃え、眩しい光を放って、人民は喜んで服従していた直後だったから、こんな不幸な事態は起こるはずのない時代であった。それなのにこんなことになった理由は天意か人為かは知らないが、小さな出来事が大きな出来事を引き起こし、不思議なことが連続して起こり、その騒乱が四年間天地を震わせその影響は外国にも及んだせいである。

 建文帝は生前の実名はインブンといい、太祖の孫であった。父親の懿文太子が帝位を継ぐはずであったが、不幸にも若くして亡くなった。太祖はその時六五歳にもなっていたので、流石に淮河の平民出身で腰に剣を差し、馬に鞭を振るって四百の州を一五年間戦乱に明け暮れついに帝になった大豪傑もたそがれに灯りを失い荒野の旅に疲れたような気持ちになったのであろうか、こらえきれず泣き崩れた。翰林学士の劉三吾が嘆かれるのはごもっともですが、すでに帝位を継げる孫もいらしゃるのにそこまで悲しむほどのことはございますまい、これを皇太子とすれば、天下の民はみな心を一つにするでしょうに、そんなに心配には及びませんと申し上げたのでそれももっともだとうなずいて、その年の九月皇大孫と決めたのが後の建文帝である。~に建文帝が生まれて一〇年で父親懿文が亡くなったとあるのはおそらく脱字であって父親と死別し皇太子となったのは一六歳のときであった。性格は温和かつ親孝行で父親の病中は三年間昼夜問わず身近にいて、亡くなったときは、思慕の情、悲哀の涙、絶えることなく、からだも痩せ細ってしまった。太祖はこれをみておまえは本当に孝行だ、子供を失って孫を頼む年寄りの私を思ってくれているだろうとおっしゃって、あまり悲しんでからだをこわすことのないよう愛撫したという。その性格が美しいことはこれからもわかるであろう。