日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

老くじらの最期

(中年のくじら)

爺さんあんたはもう歳だ、ふさぎこんでため息ばかり 

ろくに動きもしやしない

昔は四海を股にかけあっちへこっちへ旅してた

北の果てから南の果て 東の果てに西の果て

行ったことない場所なんてなかったもんさ

シャチどもに囲まれて戦ったこともある 

ニンゲンに殺られそうになったこともある

頭や腹の傷はその時ついたって自慢してた

それがどうだい、今じゃめんどくさそうに上へ上がっては日向ぼっこ

若い奴が宙に跳ねてるのをぼんやり見てるだけときたもんだ

おまけに最近は食欲もガタ落ち

若い時は逃げるニシンどもを丸呑みしてたってのに

爺さんあんたはもう歳だ

 

あるとき爺さん出かけていった

大きな大きな珊瑚礁の広がるずっと先のそのまた先の寂しいところ

岩ばかりの底に大きなヒビが南北に走って中は真っ暗

どこまで深いか見当つかぬ
あんまり気味が悪いからみんなめったに近寄らない

ところが爺さん、そのひびの中に入っていった

いやそれがさ、まるで迷った風もなく一直線

スッと入って見えなくなった
一体何しに行ったんだ

 

(吹き飛ばされたウリクラゲ)
ああいたた
ああまだ目が回ってふらふらする
なんだいさっきのは
いきなり吹き飛ばされちまったよ
なんだかずいぶんでっかいものだ
おかげで腕がからまっちまった
こいつはほどくに難儀だなあ
それにどこにいるのかわからない
あそこよりずいぶん明るいのは確かだけれど
なんだか眩しくっていけないや
それにあったかくて何だかからだがむずむずするぞ

いやこいつは踊らずにいられない
そうれくるりくうるりと
へへ、どんなもんだい
くるりくうるり

 

(色鮮やかな魚)
一体どういうつもりだろ
あいつすうっとあんなとこへ潜っていったよ
みんなあそこを横切るだけでもこわいっていうのに
いやだよ、なんだか胸騒ぎがする
え、何?
死ににいった?
ふうん なるほどね
そういやずいぶん歳とってたようだよ
頭やらおなかに大きな傷が何本もあってさ
どうやったらあんな傷がつくもんだろ
あ、また聞こえた
あれはあのあいつの仲間かねえ
姿は見えないけどずいぶん悲しそうに鳴くじゃないか

やっぱり死ににいったのかねえ

 

(後をつけるサメ)
馬鹿、近づきすぎだ
気づかれねえように距離をとれ
ああそれくらいだ
そのくらいなら大丈夫
なに腹減ってしかたねえ?
まあまて もう少しの辛抱だ
爺がくたばちっまえばこっちのもんだ
じきに腹一杯喰えるって
誰にも邪魔はさせねえよ
まあ欲言えばもうちっと若えのをと言いたいとこだがこの際だ
贅沢はいわねえ
食えるだけでもよしとしとこう
それにしてもよく気づいたな兄弟
知らせてくれて感謝するぜ
久々のでかい獲物だ、抜け駆けはよくねえ、みんなで分けあわねえとな
ーくそ、馬鹿に冷えてきた
おまけに暗くてよく見えねえし
こうなると鼻だけが頼りだな
いいか絶対逃がすなよ
これのがしたらまたイワシばっかくわなきゃならねえ
もうあいつらは食い飽きた
数ばっか多くてちっとも腹の足しになりゃしねえ
なにどこまで下りるのかって?
さてな、爺にきいてくれ
俺だってここに入ったのは初めてなんだから・・・まったく気味の悪いところだぜ
おまけに雪のやつがまとわりつきやがってうざいったらねえ
さっさと止みやがれってんだ、こん畜生

 

(逆立ちシーラカンス) 
いやはやこうしていると
なんともいえぬ良い気持ち
わしが逆さまなのかまわりがそうなのか
いやもう上でも下でもどっちでもいい
わしはこの姿勢が好きなんだ
とても平和で満たされた気分
腹も減らなきゃ渇きもせぬ
ずっとこのままでいたいくらい
ほんとうに気持ちが安らーおお、おおっと、今のはなんだ
なにかとてつもなく大きなものがそばを通ったぞ
おかげで目が回ってしまった
ええいこの程度で情けない
まだまだわしも修行がたりぬ

よっこらしょっと、とりあえず体勢を立て直して-しかし、なんだな、いつまでもこうしていていいものかな
もっと明るいところへいって他の者たちといっしょに遊んだほうがいいんじゃあるまいか
こんなところでひとり逆立ちしてる場合だろうか
ううむ、さきほど姿勢を崩されたせいか
ここにきて妙に不安になってきたぞ
ここでこうしているべきか
それとも上にいこうか どうするか

ちっとも決められぬ
いやはや困ったことだわい。

 

(深海エビの歌)
・・るる・る
ぐわ・ら・・ぐ・わ・ら
こいこいこい、ふってこい
まるいのしかくいのふってこい
る・るる・るるるる・る
ぐわら・ぐわら
あの口この口さらりとよけて
こいこいこいここまでこい

 

(ソコボウズの歌) 
くねくねくね
にょろにょろ、にょろり
落ちたぞ、落ちた、何落ちた
見たことないよなでかい雪
エビに貝にアンコウまで
みんな泥の中からとびだして
いやはやたいした騒ぎさね
いつまでもふわふわ浮いてらあ
目はなくともそれくらいわかるのさ
それにしてもいいにおい
サメどもすっかり夢中だな
ばりばりぼりぼりすげえ音
ますます腹がへってきた
でもここは我慢だ我慢
まずはあいつらが行っちまわねえと
なにしろやつらは凶暴だからな、うかつに近づくと食われちまう
ああ腹へった腹へった
くねくね、くね

 

(再びサメ)
食い破れ食い破れ
さあこいつだこのときだ
ああうめえうめえ
ふるえちまわあ
こいつはまったく大した御馳走だ
わざわざこんなとこまで来たかいあったぜ
さあさあ、一口でも多くガブリといけ からだじゅう口にして食いまくれ

 

(巻き貝の親子)
ねえおっかさん

なあに
おいらさっきからからだが重くて仕方ないや
どうしたんだろう
こうして進んでいてもどんどん重くなってくるみたい
そう、それはね雪がふってるからよ
雪?それってなに?
たまに上の方から落ちてくるものよ
ひとつひとつは軽いんだけど、それが積もると重くなったりするの
ふうんそんなものがふってるのか 

全然わからなかった
けどどんどん重くなって体が埋まりそうだーあっ、おっかさん、あそこだけなんだかぼうっと明るいよ
どうしてだろう?
どこ?ああ、あれはねーホタルさん、ときどきここらを掃除してきれいにしてくれるの
掃除してるときはいつもあんな風に光るのよ
ふうん、掃除してるとこ見に行っても良い?
だめだめ、こわいのがいるかもしれないからね、あっちへいってはだめですよ
ちぇ、つまんないの
けどほんとに明るいわね
こんなのははじめて、よほどの大掃除みたいねえ

 

(どこかから響く声)
こうして爺さんは死んだのだ。

腹ペコ連中に腹いっぱい食わせて死んだのだ。

今では爺さん骨になって、雪にしんしん、しんしん、埋もれてく。