日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」5

我が古小説家の雄を曲亭主人馬琴と為す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝雄大、弓張月の壮快、皆江湖の嘖々として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優るあるも劣らざるものを侠客伝と為す。憾むらくは其の叙するところ、蓋し未だ十の三四を卒るに及ばずして、筆硯空しく曲亭の浄几に遺りて、主人既に逝きて白玉楼の史となり、鹿鳴草舎の翁これを続げるも、亦功を遂げずして死せるを以て、世其の結構の偉、輪奐の美を観るに至らずして已みたり。然れども其の意を立て材を排する所以を考うるに、楠氏の孤女を仮りて、南朝の為に気を吐かんとする、おのずから是れ一大文章たらずんば已まざるものあるをば推知するに足るあり。惜い哉其の成らざるや。

侠客伝は女仙外史より換骨脱胎し来る。其の一部は好逑伝に藉るありと雖も、全体の女仙外史を化し来れるは掩う可からず。此の姑摩媛は即ち是れ彼の月君なり。月君が建文帝の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本たらずんばあらず。此は是れ馬琴が腔子裏の事なりと雖も、仮に馬琴をして在らしむるも、吾が言を聴かば、含笑して点頭せん。

 

我が国の昔の小説家で優れているのは曲亭馬琴である。馬琴が書いたのは長編4、5編で、八犬伝雄大さ、弓張月の壮快さ、皆世間の評判は上々であるが八犬伝弓張月に比べても勝るとも劣らぬ小説を書いていて侠客伝というのがそれである。残念なのはその書いたところのものが10のうちの3,4にもならぬ未完である点で筆や硯がむなしく曲亭の机に残ったまま彼が世をさった後鹿鳴草舎の翁 生田南水がこれを完成させようと続きを書くもまたも完成することなく死去し世間はその構成が堂々として美しいことを見ることはなく中断してしまった。しかしその創作の意図や材料を並べた理由を考えてみると、楠 の一人娘を主人公として南朝のために奮戦させるというのだから、おのずから傑作といわずにおれないものがあると推測するに十分である。未完に終わったのはなんとも残念だ。
侠客伝は女仙外史を換骨奪胎したものである。その一部は好逑伝を借りたものだが全体でみると女仙外史を借用したことは覆うべくもない。この作品の姑摩媛はかの月君である。月君が建文帝のために挙兵したことは姑摩媛が南朝のために尽力したことの~でなくてなんだろうか。無論これは馬琴の心中にあったこととはいえ仮に馬琴に私の考えを話せば笑ってうなずいてくれるでろう。