日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」15

嗚呼、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕の情景、百歳の下、人をして欽仰せしむるに足るものあり。奈何せん寒微より起りて、智浅く徳寡し、といえるは、謙遜の態度を取り、反求の工夫に切に、諱まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕に在り、といえるは、英雄も亦大限の漸く逼るを如何ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚にぞ哀念かこれ有らん、と云える、流石に孔孟仏老の教に於て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑少きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真豪傑、生きて長春不老の癡想を懐かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容として逼らず、晏如として惕れず、偉なる哉、偉なる哉。皇太孫允炆、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一言や鉄の鋳られたるが如し。衆論の糸の紛るゝを防ぐ。これより前、太孫の儲位に即くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖も、太孫の人となり仁孝聡頴にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚だ欠く。此を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其詩婉美柔弱、豪壮瑰偉の処無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句の属対をなさしめしに、大に旨に称わず、復び以て燕王棣に命ぜられけるに、燕王の語は乃ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌偉にして髭髯美わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖に肖たること多かりしかば、太祖も此を悦び、人も或は意を寄するものありたり。此に於て太祖密に儲位を易えんとするに意有りしが、劉三吾之を阻みたり。三吾は名は如孫、元の遺臣なりしが、博学にして、文を善くしたりければ、洪武十八年召されて出でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡、朱善と与に、世称して三老と為す。人となり慷慨にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与りて定むる所多く、帝の洪範の注成るや、命を承けて序を為り、勅修の書、省躬録、書伝会要、礼制集要等の編撰総裁となり、居然たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節に臨むに至りては、屹として奪う可からず。懿文太子の薨ずるや、身を挺んでゝ、皇孫は世嫡なり、大統を承けたまわんこと、礼也、と云いて、内外の疑懼を定め、太孫を立てゝ儲君となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言無からん、乃ち曰く、若し燕王を立て給わば秦王晋王を何の地に置き給わんと。秦王〜晋王棡は、皆燕王の兄たり。孫を廃して子を立つるだに、定まりたるを覆すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世豈事無くして已まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其事止みけるなり。是の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏めて、特に厳しく皇太孫允炆宜しく大位に登るべしとは詔を遺されたるなるべし。太祖の治を思うの慮も遠く、皇孫を愛するの情も篤しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨三日にして服を釈き、嫁娶を妨ぐる勿れ、と云える、何ぞ倹素にして仁恕なる。文帝の如くせよとは、金玉を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福あらしめんとなり。諸王は国中に臨きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋し其意諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺孽、辺土の黠豪等、或は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原の勢を成すに至らんことを虞るるに似たり。此も亦愛民憂世の念、おのずから此に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。

 


ああ実にその言うところ、人を感じ入らせることが多いことだろうか。大任にあたること三一年、危機感を胸に日々努力して怠けず、ひたすら人民のためになることを志したと言ったのはまさに帝王としてふさわしく、気性堂々として情け深く、長い年月に渡り人をして仰ぎ慕いせしめるに足りるものがあった。残念なことに貧農の生まれで智恵浅く人徳も少ないと言ったのは謙遜であり反省を大事にしたものでその飾らない態度は本当に美しい。今年七十一歳死はいつくるかわからないと言うのは英雄でさえもまた死期の迫ったのをどうすることもできないのだ。そして今万物自然の理を知り、哀しみなどどうして湧き上がってこようかというは流石に儒教仏教道教の教えを得た者の言葉である。飲酒後に英雄多く、死を目前にして豪傑が少ないのは世間の常態であるが、太祖は真の豪傑であり生きて不老不死の妄想を抱かず、死にあたっては万物自然の摂理に安んじようとする。従容として行き詰まることなく、落ち着いており不安に思うこともない、まことに偉大である。皇太孫允炆は帝位につくようにと言ったその一言は、鋳られた鉄のように固い厳命である。多くの者が様々な解釈をさしはさむことのないように配慮したのである。これより前、太孫が皇太子となったとき、太祖は太孫を愛してはいたものの、太孫の人柄は仁に篤く聡明で学問好きで読書が好きな反面、勇気や決断力に大変乏しかった。太祖が詩を求めるたびに、その詩は美しくも弱々しく、勇壮なところがなく太祖はあまり喜ばなかった。一日中太孫にあれこれ詩を作らせてみたが全く気にいらず今度は燕王棣に命じてみたところ燕王のそれは素晴らしいものであった。燕王は太祖の4番目の子で容貌が立派で伸ばした髭も美しく、智恵と勇気を備え、計画性もあり、~太祖によく似ていたので、太祖も喜んで~ここにきて太祖密かに皇太子を変えようという気になったが劉三吾がこれを阻んだ。三吾は名を如孫といい、元の遺臣であったが、博学で文章もうまかったので洪武十八年召されて仕えることとなった。ときに七十三歳。当時汪叡、朱善とともに世間では三老と呼んだ。人柄は~にして人付き合いがよく自らを坦坦翁と称したことでもその風格は推察できよう。坦坦翁は平生実に~として文章と学問で太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を制定するにあたっての~定めるところが多く、~命をうけて序文を書き勅修の書、省躬録、書伝会要、礼制集要等の編集総裁となり、~の儒学者でありつつ朝廷と民間で重んじられた。そして国家の重大事にあたっては超然として揺るがない態度をとった。懿文太子が亡くなると、率先して孫が世継ぎなのですから皇帝となるのが礼というものですと言って内外の不安を鎮め孫を皇太子としたのは実にこの劉三吾であった。このような三吾が太祖の心中を知って何も言わないわけがない。三吾が言うにはもし燕王を皇帝にするのなら秦王、普王をどこの地に置くのであるか。秦王~ 普王棡は、みな燕王の兄である。孫ではなく子を皇帝とするのでさえ定まったことを覆すことであるのに、まして兄を越して弟を君主とするのは順序を乱すもの、どうして揉め事が起こらないことがありましょうか、~抜きん出て賢明な太祖は言い終わらぬうちに非を悟ってそれをやめにした。こうしたこともあったので太祖は自分で崩御後の動揺を防ぎ、~をとどめ、特に厳しく皇太孫允炆が皇帝になるよう詔を遺されたのである。太祖が~孫を愛するの情も篤いというべきであろう。葬祭の儀は漢の文帝のようにしろといい、天下の人民は~して結婚の邪魔をしてはならないといったのは、なんと質素にして情け深いことか。文帝のようにせよとは~を使うなということ。孝陵の山川はそのままにせよとは土木工事をするなということである。結婚の邪魔をしてはならないとは人民の幸せを考えてのことだ。諸王は国の中で喪に服し都に上ってはならぬといったのは、領国を去って都に至れば~虚に乗じて挙兵すれば~をおそれたようだ。これもまた民を愛し世を憂う結果こんな風に記したものであろう。太祖の遺詔、ああ、なんと人を感動せしむることの多いことか。