日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」 8

賽児は蒲台府の民林三の妻、少きより仏を好み経を誦せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之を郊外に葬る。賽児墓に祭りて、回るさの路、一山の麓を経たりしに、たま〳〵豪雨の後にして土崩れ石露われたり。これを視るに石匣なりければ、就いて窺いて遂に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪って人馬となし、剣を揮って咒祝を為し、髪を削って尼となり、教を里閭に布く。祷には効あり、言には験ありければ、民翕然として之に従いけるに、賽児また饑者には食を与え、凍者には衣を給し、賑済すること多かりしより、終に追随する者数万に及び、尊びて仏母と称し、其勢甚だ洪大となれり。官之を悪みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者董彦杲、劉俊、賓鴻等、敢然として起って戦い、益都、安州、莒州、即墨、寿光等、山東諸州鼎沸し、官と賊と交々勝敗あり。官兵漸く多く、賊勢日に蹙まるに至って賽児を捕え得、将に刑に処せんとす。賽児怡然として懼れず。衣を剥いで之を縛し、刀を挙げて之を砍るに、刀刃入る能わざりければ、已むを得ずして復獄に下し、械枷を体に被らせ、鉄鈕もて足を繋ぎ置きけるに、俄にして皆おのずから解脱し、竟に遯れ去って終るところを知らず。三司郡県将校等、皆寇を失うを以て誅せられぬ。賽児は如何しけん其後踪跡杳として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京山東の尼姑は尽く逮捕して京に上せ、厳重に勘問し、終に天下の尼姑という尼姑を逮うるに至りしが、得る能わずして止み、遂に後の史家をして、妖耶人耶、吾之を知らず、と云わしむるに至れり。 

世の伝うるところの賽児の事既に甚だ奇、修飾を仮らずして、一部稗史たり。女仙外史の作者の藉りて以て筆墨を鼓するも亦宜なり。然れども賽児の徒、初より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐するところとなって而して後爆裂迸発して燄を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒窘窮して戈を執って立つに及び、或は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其実を知るを得ん。永楽簒奪して功を成す、而も聡明剛毅、政を為す甚だ精、補佐また賢良多し。こゝを以て賽児の徒忽にして跡を潜むと雖も、若し秦末漢季の如きの世に出でしめば、陳渉張角、終に天下を動かすの事を為すに至りたるやも知る可からず。嗚呼賽児も亦奇女子なるかな。而して此奇女子を藉りて建文に与し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其の奇を求めずして而しておのずから然るあらんのみ。然りと雖も予猶謂えらく、逸田叟の脚色は仮にして後纔に奇なり、造物爺々の施為は真にして且更に奇なり。

 

賽児は蒲台府の農民である林三の妻で、若い頃から仏教を好みよく読経して別に変わったところはなかった。そのうち林三が死んで城の郊外に葬った。賽児が墓に祭って、その帰り道とある山の麓にさしかかったときたまたま豪雨の後だったから土砂が崩れ石がむき出しになっていた。よく見るとそれは石でできた箱であり中には仙術の本と宝剣が入っていた。賽児はこのときから妖術に通じ紙を切ってこれを人馬として実体化し、剣を振るっては天に祈り、髪を切って尼となり、教えを村々に広げた。祈りには効果があり、言葉にはしるしがあったので、民衆は寄り集まって彼女に従っていたが、賽児はまた飢えた者に食べ物を与え、凍えている者には衣服を恵み、人々を助けることが多かったので、ついに従う者は数万にもなり、彼女を尊びて仏母と称して、その勢いは大変盛んになった。政府はこれを憎み賽児を捕らえようとしたが、賽児を崇める董彦杲、劉俊、賓鴻たちは敢然とこれと戦い益都、安州、莒州、即墨、寿光等、山東諸州は騒乱に沸き返り、政府軍と賽児軍の双方に勝敗があった。官兵が次第に多くなり、賊が少なくなるにいたって賽児は捕らわれ、処刑されようとした。賽児は楽しげで怖れなかった。衣服を脱がせて縄で縛り、刀で斬ろうとしたが刃が入らないので、仕方なくまた獄に入れ、枷を身体にはめ鉄の鎖で足を繋いでおいたが、突然全部外して脱獄してしまった。役人や将校らは罪人を逃がしたということで処刑された。賽児のその後の行方は杳として知れなかった。永楽帝は怒って、北京山東の~は全員逮捕して〜に上らせて厳重に取り調べ、ついには天下の~という~を逮捕したが、賽児を捕らえることはできず、後世の歴史家をして妖怪か人間かわからないと言わしめた。

伝わるところの賽児の話というのは極めて奇怪であって、飾り気なくしてその一部は小説である。女仙外史の作者がこれをもとに小説を書いたのももっともなことである。しかし賽児は、はじめから大志があったのではなく、役人が彼らを虐げた後に

これに反抗して戦に及んだだけである。永楽帝が賽児を求めることに急いていたことを考えると、賽児たちが切羽詰まって戦う際、もしかして建文帝と称して永楽帝に反抗することがあったかもしれない。永楽帝の時代には歴史書にいい加減なものが多かったから、今本当のことを知るのは難しい。永楽帝は帝位を簒奪して功をなし、しかも聡明で意志が強く、政治に熱心で補佐する者も優秀な者が多かった。そんな訳で賽児軍がすぐに鎮圧されてしまったのだが、もしこれが秦末漢季の世のことであったならば、陳渉張角が天下を動かすほどのことになったかもしれない。ああ賽児もまた奇女子であった。そしてこの奇女子に建文帝に味方し永楽帝と争わしめた。女仙外史の奇天烈さは奇を求めることなく自然にそうなっただけのことであった。しかしそうはいっても逸田叟の脚色は作り物であって多少奇であるというだけだ。事実は真にしてこれよりもさらに奇である。