日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」18

【訳】

帝のために密かに計画する者は誰か。黄子澄と斉泰である。子澄のことは既に書いた。斉泰は~出身で洪武十七年よりようやく出仕した。建文帝が帝位につくと子澄とともに帝の信頼を得て国政に参加した。諸王が入京し会葬するのを禁じた時諸王は皆斉泰が詔を改竄して疎遠にしたのだと考えた。斉泰が諸王に憎まれたのは当然であろう。

 諸王のために密かにたくらむ者は誰か。諸王の中の傑物は燕王である。燕王の補佐役に僧の道衍という者がいた。道衍は僧だといっても~。洪武二十八年、初めて諸王が領国に入った時、道衍は自ら燕王の補佐役となろうとして言った、もし私を側近として用いるならば、~を~と。~すればそれは皇帝になるということで皇太子がはっきりと決まって太祖もまだ崩御せぬうちでさえこんな怪僧がいて燕王のために~を奉ろうとし、燕王もこのような怪僧を身近においた。燕王の胸の内は清らかではなく、道衍の~にも毒があったということである。道衍は~に来て袁珙を王に推挙した。袁珙は字を廷玉といい、鄞の出身でこれまた一種の奇人であった。昔海外に遊学して、人を占う術を別古崖という者から教授された。空を仰ぎ太陽を見て陽光に眼を眩ませた後、赤い豆と黒い豆を暗い部屋で見分け、また五色の糸を窓の外に掛けて、月光に照らしてその色を区別して誤ったことがなく、こうした後に人を占った。そのやり方というのは夜中~を燃やし人の ~顔を見、参考に生年月日を使うのであったが百に一つの間違いなく元の末より天下に名を馳せていた。彼が道衍と知り合いになったのは道衍が嵩山寺にいたときであった。袁珙は道衍の人相をつくづくと見て、なんたる奇妙な僧侶か、眼は三角で、顔の形は病んだ虎のようだ、性格は絶対に残忍であろう、劉秉忠の系統であると言った。劉秉忠は~。元が天下を取ったのはもとよりその兵力によるが、その成功が速やかだったのも劉が~だったのも大きい。秉忠は~の僧だった。道衍が秉忠の系統だと言ったのはまさに的を射ていた。

このときより道衍と袁珙は友人となった。道衍が袁珙を燕王に推挙した際、燕王はまず使者をやって袁珙と酒場で飲ませ、王は自ら衛士の鑑たる堂々としたる者九人の中に入って自分も衛士の服を着て弓矢をもって酒場で飲んだ。袁珙は一見してすぐに走って燕王の前に拝していった、殿下はどうして衛士の格好をしてここに来たのですかと。燕王は笑っていった、我らはみな護衛の者だと。袁珙は頭をふって信じなかった。ここに至って、王は立って袁珙を宮中に連れて行き自分の人相を詳しく占わせた。袁珙が見つめることやや久しくして言うには殿下は~いずれ太平の世の天子になるお方でございます。四十歳になって髭がへそを過ぎるほど伸びれば~の地位につくことは間違いございませんと言った。また燕の役所の将校や役人を人相を見させると袁珙は一人一人を指さして言うには~はふさわしく~は~ 将軍~は貴官がいいと。燕王はこうした言葉がうかつに人の耳に入ることをおそれ、袁珙を遠ざけて通州に行かせ、船で極秘裏のうちに~。道衍は北平の慶寿寺にあり、袁珙は燕の~にあり燕王と三人で時々人を遠ざけて話をした。それがどういう内容であったかはわからない。袁珙は柳荘居士という号であった。その頃の年齢は七十に近かった。そもそも何が欲しくて燕王に反旗を翻すよう勧めたのか。その子の忠徹が伝えた柳荘相法という本が今も残っているがこれは人相学の手引き書である。袁珙と永楽帝が問答した~のうちには帝の髭のことを記してある。相法は三巻で、信じない者は眼を通してつまらぬ本だというが、すべてがそうだとは言えないようだ。忠徹も家学を伝えて、当時信じられていた。忠徹の著作に古今識鑑八巻があり、明志が採録している。自分はまだ眼を通したことがないがおそらく人相学の本であろう。袁珙と忠徹はどちらも明史の方伎伝に載っている。袁珙が燕王に謁見すると髭が長くなってへそを過ぎたら天子になりますといった。燕王は笑って言った、もう年は四十になろうとしている、髭がもう伸びるものかと。道衍はここで金忠という者を薦めた。金忠も~の出身で若くして書を読み占いに通じていた。軍に~。

占いは奇妙に当たって街の人々が伝え~ 燕王は金忠に自分を占わせた。忠は占い~。燕王はようやく決意を固めた。金忠はのちに仕えて兵部尚書となり皇太子が国政を代行するのを補佐した。明史の巻百五十にその伝がある。これまた不思議な術を使う者であった。

 

*訳の『〜』は不明な箇所です。


【原文】

帝の為に密に図る者をば誰となす。曰く、黄子澄となし、斉泰となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は溧水の人、洪武十七年より漸く世に出づ。建文帝位に即きたもうに及び、子澄と与に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏めたる時の如き、諸王は皆謂えらく、泰皇考の詔を矯めて骨肉を間つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。 諸王の為に私に謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄を燕王となす。燕王の傅に、僧道衍あり。道衍は僧たりと雖も、灰心滅智の羅漢にあらずして、却って是れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就く時、道衍躬ずから薦めて燕王の傅とならんとし、謂って曰く、大王臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽を奉りて大王がために戴かしめんと。王上に白を冠すれば、其文は皇なり、儲位明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是の如きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而して燕王是の如きの怪僧を延いて帷幙の中に居く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲も毒ありというべし。道衍燕邸に至るに及んで袁珙を王に薦む。袁珙は字は廷玉、鄞の人にして、此亦一種の異人なり。嘗て海外に遊んで、人を相するの術を別古崖というものに受く。仰いで皎日を視て、目尽く眩して後、赤豆黒豆を暗室中に布いて之を弁じ、又五色の縷を窓外に懸け、月に映じて其色を別って訛つこと無く、然して後に人を相す。其法は夜中を以て両炬を燃し、人の形状気色を視て、参するに生年月日を以てするに、百に一謬無く、元末より既に名を天下に馳せたり。其の道衍と識るに及びたるは、道衍が嵩山寺に在りし時にあり。袁珙道衍が相をつく〴〵と観て、是れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎の如し。性必らず殺を嗜まん。劉秉忠の流なりと。劉秉忠は学内外を兼ね、識三才を綜ぶ、釈氏より起って元主を助け、九州を混一し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮攉の宜しきを得るに因るもの亦鮮からず。秉忠は実に奇偉卓犖の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処に爬着するもの。是れより二人、友とし善し。道衍の珙を燕王に薦むるに当りてや、燕王先ず使者をして珙と与に酒肆に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑わり、おのれ亦衛士の服を服し、弓矢を執りて肆中に飲む。珙一見して即ち趨って燕王の前に拝して曰く、殿下何ぞ身を軽んじて此に至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩皆護衛の士なりと。珙頭を掉って是とせず。こゝに於て王起って入り、珙を宮中に延きて詳に相せしむ。珙諦視すること良久しゅうして曰く、殿下は龍行虎歩したまい、日角天を挿む、まことに異日太平の天子にておわします。御年四十にして、御鬚臍を過ぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位に登らせたまわんこと疑あるべからず、と白す。又燕府の将校官属を相せしめたもうに、珙一々指点して曰く、某は公たるべし、某は侯たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王語の洩れんことを慮り、陽に斥けて通州に至らしめ、舟路密に召して邸に入る。道衍は北平の慶寿寺に在り、珙は燕府に在り、燕王と三人、時々人を屏けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。珙は柳荘居士と号す。時に年蓋し七十に近し。抑亦何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹の伝うるところの柳荘相法、今に至って猶存し、風鑑の津梁たり。珙と永楽帝と答問するところの永楽百問の中、帝鬚の事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書となすと雖も、尽く斥く可からざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の著わすところ、今古識鑑八巻ありて、明志採録す。予未だ寓目せずと雖も、蓋し藻鑑の道を説く也。珙と忠徹と、偕に明史方伎伝に見ゆ。珙の燕王に見ゆるや、鬚長じて臍を過ぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、吾が年将に四旬ならんとす、鬚豈能く復長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠というものを薦む。金忠も亦鄞の人なり、少くして書を読み易に通ず。卒伍に編せらるゝに及び、卜を北平に売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て神となす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して卦を得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意漸くにして固し。忠後に仕えて兵部尚書を以て太子監国に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。