日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」24

【訳】

燕王は護衛指揮張玉朱能ら壮士八百人を入れて守らせた。矢も石も未だ飛ばないが~。都指揮使の謝貴は~の兵で王の城を囲み、木の柵で端礼門等の道を断った。朝廷より燕王の爵位を削る詔と王府の官僚を捕らえよという詔が届いた。秋七月、布政使の張昺は謝貴とともに~燕府を包囲して朝命により逮捕するべき王府の官僚を引き渡すよう求めた。少しでも逆らえば岩が卵を潰すかのような勢いでもって攻めようという状態で昺貴の軍は殺気走って、矢を放ち府内に達することもあった。燕王が相談して言うには我が軍は甚だ少なく、敵軍は甚だ多い、どうしたらいいか。朱能が前に出ていった、まず張昺と謝貴を除かないと私もうまくやりようがない。王がいった、よし二人を生け捕りにしよう。~、王は病気が治らないと称し、東殿に出て、官僚の祝いを受け、人をやって昺と貴とを呼び寄せようとした。二人は来なかった。そこでまた官吏を使わして逮捕したい者を渡すふりをした。二人はやってきた。護衛の者が甚だ多かったが門番が怒鳴りつけてこれを中に入れず昺と貴のみが入った。昺と貴が入室すると燕王は杖をつきながら座り宴会を開いて酒をふるまい~に瓜を盛って出した。王はいった、たまたま今年とれたばかりの~最初の瓜をすすめる者がいました、あなた方とともにいただきましょう。そしてひとつ瓜を手にしたがすぐに怒り罵っていった、今は世間の庶民でさえ兄弟親族互いに思いやりをもっている、私は天子の親族なのに昼夜命を安んずることがない、~どうしてこんなことを放っておけようかと憤然と瓜を地に投げつければ、護衛兵は皆激怒して前に出て昺と貴とを捕らえ以前から朝廷に内通していた葛誠と盧振等を取り押さえた。王はここにおいて杖を投げ捨てて立っていった、病気などであるものか奸臣に~たからそうしただけだとついに昺貴等を斬り殺した。昺貴等の将軍と兵たちは二人が一向に戻らないのを見て最初は疑い後には悟ってそれぞれ散るように去った。王城を包囲した者たちも、~がすでにいなくなったので配下も力なく兵たちは自然に壊滅した。張昺の部下であった北平都指揮の彭二は憤懣やるかたなく馬で駆け回ってしきりに街中に大声で叫びながらいった、燕王が反逆したぞ、俺に従って朝廷のために尽力する者には褒美があるぞと。兵千人余りを得たので端礼門に殺到した。燕王の勇卒である龐来興、丁勝の二人が彭二を殺したのでその兵も散り散りに逃げた。この勢いに乗じようと張玉、朱能等いずれも塞北に転戦し元の兵と~兵を率いて夜に乗じて突撃し夜明けになるまでに九つの門のうち八つを奪い、ただ一つ残った西直門も~で守っている者を敗走させた。北平が既に完全に燕王の手に落ちたので都指揮使の余瑱は走って居庸関を守り、馬宣は東に行き薊州に走り、宋忠は開平より兵三万を率いて居庸関に着いたがあえて進軍せず退いて懐来を保った。

 

※訳文中の〜は不明箇所です。


【原文】

燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛らしめぬ。矢石未だ交るに至らざるも、刀鎗既に互に鳴る。都指揮使謝貴は七衛の兵、并びに屯田の軍士を率いて王城を囲み、木柵を以て端礼門等の路を断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの詔、及び王府の官属を逮うべきの詔至りぬ。秋七月布政使張昺、謝貴と与に士卒を督して皆甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一言の支吾あらんには、巌石鶏卵を圧するの勢を以て臨まんとするの状を為し、昺貴の軍の殺気の迸るところ、箭をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ寡く、彼の軍は甚だ多し、奈何せんと。朱能進んで曰く、先ず張昺謝貴を除かば、余は能く為す無き也と。王曰く、よし、昺貴を擒にせんと。壬申の日、王、疾癒えぬと称し、東殿に出で、官僚の賀を受け、人をして昺と貴とを召さしむ。二人応ぜず。復内官を遣して、逮わるべき者を交付するを装う。二人乃ち至る。衛士甚だ衆かりしも、門者呵して之を止め、昺と貴とのみを入る。昺と貴との入るや、燕王は杖を曳いて坐し、宴を賜い酒を行り宝盤に瓜を盛って出す。王曰く、たま〳〵新瓜を進むる者あり、卿等と之を嘗みんと。自ら一瓜を手にしけるが、忽にして色を作して詈って曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族、尚相互に恤ぶ、身は天子の親属たり、而も旦夕に其命を安んずること無し、県官の我を待つこと此の如し、天下何事か為す可からざらんや、と奮然として瓜を地に擲てば、護衛の軍士皆激怒して、前んで昺と貴とを擒え、かねて朝廷に内通せる葛誠盧振等を殿下に取って押えたり。王こゝに於て杖を投じて起って曰く、我何ぞ病まん、奸臣に迫らるゝ耳、とて遂に昺貴等を斬る。昺貴等の将士、二人が時を移して還らざるを見、始は疑い、後は覚りて、各散じ去る。王城を囲める者も、首脳已に無くなりて、手足力無く、其兵おのずから潰えたり。張昺が部下北平都指揮の彭二、憤慨已む能わず、馬を躍らして大に市中に呼わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門に殺到す。燕王の勇卒龐来興、丁勝の二人、彭二を殺しければ、其兵も亦散じぬ。此勢に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北に転戦して元兵と相馳駆し、千軍万馬の間に老い来れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余瑱は、走って居庸関を守り、馬宣は東して薊州に走り、宋忠は開平より兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢て進まずして、退いて懐来を保ちたり。