日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」26

(訳)

燕王が挙兵した建文元年七月より、恵帝が国を譲った建文四年六月までは戦乱の続いた歴史であって今そのひとつひとつを記すのは面倒だ。詳細を知りたければ明史と明朝紀事本末などを読んで考えればよい。今はただその概略と燕王と恵帝の性格風貌についてわかっていることを記そう。

燕王は生まれつき智勇に恵まれ、しかも早くから戦を経験していた。

洪武二十三年太祖に命じられて諸王とともに元族を漠北に討伐した。秦王普王は怯えて進軍しなかったが燕王は将軍の傅友徳を率いて北に向かい、迤都山に至り将軍の乃児不花を捕虜にして帰った。太祖は大いに喜んでこれより後しばしば将軍を率いて出征させたが毎回功があってその名を轟かした。王は既に兵を知り戦いに慣れていた。それに加え道衍がいて機密に参画し、張玉、朱能、丘福もいて頼りになる家来たちであった。丘福は戦略の才能は張玉には及ばないが正直者で勇猛であり深く敵陣に入っては死闘し戦いが終わると~。昔に伝えられる大樹将軍の風があった。燕王をして丘将軍の戦功は自分が知っていると嘆美せしめたほどである。そんな訳で王の功臣を称賛するにも福は一番に褒められ淇国公に封ぜられた。その他の将士にも~は少なくなかった。燕王が挙兵したのも確かな胸算用あってのことであった。燕王は~張昺謝貴を斬って謀反を起こすと郭資を留めて北平を守らせ直ちに~して通州を取り、まず薊州を平定しなくては後顧の憂いがあるでしょうという張玉の言を取り入れ、玉をしてこれを攻略せしめついで夜襲して遵化を降した。これらはみな開平の北東の地であった。そのとき余瑱が居庸関を守っていた。王はいった、居庸は険しく北平の要衝である、敵がここにいれば背後を襲われることになる、すぐに取ってしまうのが一番だと。こうして徐安、鐘祥らをして瑱を攻撃して懐来に敗走させた。宋忠は懐来にいて兵三万と称していた。諸将はこれを攻めるのに難色を示した。王はいった、敵は多くこちらは少ない、だが向こうは寄せ集めの兵でその心はまだ一つになっていない、これを攻めれば必ず勝つだろうと。精鋭の兵八千を率いて~ついに戦って勝ち、忠と瑱を捕らえ斬った。ここにおいて諸州燕に降伏するものが多く、永平、欒州がまた燕のものとなった。太寧の都指揮の卜万が松亭関を出で、沙河に駐まり、遵化を攻めようとした。兵十万と称してその勢いはなかなかのものだった。燕王は間者を使って万の武将陳亨、劉貞に万を捕らえさせ投獄した。

帝は黄子澄の言を聞いて長興侯の耿炳文を大将軍として李堅、寧忠とともに北伐させて安陸侯呉傑、江陰侯呉高、都督都指揮盛庸、潘忠、楊松、顧成、徐凱、李文、陳暉、平安らに命じて~を並んで進軍しすぐに北平を攻めさせた。そのとき帝は将軍兵士を戒めこんなことをいった、昔蕭繹は挙兵して都に入ろうとしたが部下に命じていうには~。おまえたち将士は燕王と対決するに際努めてこの意に沿うようにして私が叔父を殺したというような評判を立てないでくれと。

(蕭繹は梁の孝元皇帝のことである。今、梁書を調べるとこのことは載っていない。元帝は挙兵して都に入ろうとした。時に河東王誉は帝に従わず帝の子の方等を殺した。帝は鮑泉を遣わしてこれを討たせてまた王僧弁を代わりに将軍とした。帝は高祖武帝の七番目の子であり誉は武帝の長男にして文選の撰者たる昭明太子統の第二子であった。一門云々は誉を征伐したときに言ったものであろうか。)

建文帝の情け深い性格は宋襄の仁に近く余計な情けだというべきであろう。そもそも燕王は叔父ではあるが既に爵を削られて庶民であり庶民でありながらも~、その罪はもとより~にあたる。それなのにこのような命令を出征の将士に下した。これは軍勢の鋭気を削ぎ~を小さくするだけだ。智恵があるとは言えない。燕王と戦って官軍が勝つことがあろうとこの命令があるので矢でも槍でも燕王を殺すには至らない。しかしながら小人の過ちは酷薄、徳のある者の過ちは寛大、帝の過ちをみれば帝の人となりがわかるであろう。

 

※訳文中の〜は不明箇所。

 


(原文)

燕王の兵を起したる建文元年七月より、恵帝の国を遜りたる建文四年六月までは、烽烟剣光の史にして、今一々之を記するに懶し。其詳を知らんとするものは、明史及び明朝紀事本末等に就きて考うべし。今たゞ其概略と燕王恵帝の性格風丰を知る可きものとを記せん。

燕王もと智勇天縦、且夙に征戦に習う。洪武二十三年、太祖の命を奉じ、諸王と共に元族を漠北に征す。秦王晋王は怯にして敢て進まず、王将軍傅友徳等を率いて北出し、迤都山に至り、其将乃児不花を擒にして還る。太祖大に喜び、此より後屡諸将を帥いて出征せしむるに、毎次功ありて、威名大に振う。王既に兵を知り戦に慣る。加うるに道衍ありて、機密に参し、張玉、朱能、丘福ありて爪牙と為る。丘福は謀画の才張玉に及ばずと雖も、樸直猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、戦終って功を献ずるや必ず人に後る。古の大樹将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我之を知る、と歎美せしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福其首たり、淇国公に封ぜらる。其他将士の鷙悍驁雄の者も、亦甚だ少からず。燕王の大事を挙ぐるも、蓋し胸算あるなり。燕王の張昺謝貴を斬って反を敢てするや、郭資を留めて北平を守らしめ、直に師を出して通州を取り、先ず薊州を定めずんば、後顧の患あらんと云える張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、次で夜襲して遵化を降す。此皆開平の東北の地なり。時に余瑱居庸関を守る。王曰く、居庸は険隘にして、北平の咽喉也、敵此に拠るは、是れ我が背を拊つなり、急に取らざる可からずと。乃ち徐安、鐘祥等をして瑱を撃って、懐来に走らしむ。宗忠懐来に在り 兵三万と号す。諸将之を撃つを難んず。王曰く、彼衆く、我寡し、然れども彼新に集まる、其心未だ一ならず、之を撃たば必らず破れんと。精兵八千を率い、甲を捲き道を倍して進み、遂に戦って克ち、忠と瑱とを獲て之を斬る。こゝに於て諸州燕に降る者多く、永平、欒州また燕に帰す。大寧の都指揮卜万、松亭関を出で、沙河に駐まり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、勢やゝ振う。燕王反間を放ち、万の部将陳亨、劉貞をして万を縛し獄に下さしむ。

帝黄子澄の言を用い、長興侯耿炳文を大将軍とし、李堅、寧忠を副えて北伐せしめ、又安陸侯呉傑、江陰侯呉高、都督都指揮盛庸、潘忠、楊松、顧成、徐凱、李文、陳暉、平安等に命じ、諸道並び進みて、直に北平を擣かしむ。時に帝諸将士を誡めたまわく、昔蕭繹、兵を挙げて京に入らんとす、而も其下に令して曰く、一門の内自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今爾将士、燕王と対塁するも、務めて此意を体して、朕をして叔父を殺すの名あらしむるなかれと。

(蕭繹は梁の孝元皇帝なり。今梁書を按ずるに、此事を載せず。蓋し元帝兵を挙げて賊を誅し京に入らんことを図る。時に河東王誉、帝に従わず、却って帝の子方等を殺す。帝鮑泉を遣りて之を討たしめ、又王僧弁をして代って将たらしむ。帝は高祖武帝の第七子にして、誉は武帝の長子にして文選の撰者たる昭明太子統の第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)

建文帝の仁柔の性、宋襄に近きものありというべし。それ燕王は叔父たりと雖も、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器を弄し王師に抗す、其罪本より誅戮に当る。然るに是の如きの令を出征の将士に下す。これ適以て軍旅の鋭を殺ぎ、貔貅の胆を小にするに過ぎざるのみ、智なりという可からず。燕王と戦うに及びて、官軍時に或は勝つあるも、此令あるを以て、飛箭長槍、燕王を殪すに至らず。然りと雖も、小人の過や刻薄、長者の過や寛厚、帝の過を観て帝の人となりを知るべし。