日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」22

【訳】

建文元年正月、燕王は長史葛誠〜奏せしめた。誠は帝のためつぶさに燕邸の実情を告げた。ここにおいて誠を~燕に帰らせて内応させた。燕王はさとってこれに備えた。二月になって燕王が参内した。天子の通る道を通り宮殿の階段をのぼって拝せない等、不敬のことがあったので、監察御史の曾鳳韶がこれを追及したが、帝がいうには近親だから責任を問うてはならないと。戸部侍郎の卓敬、先に書状を奉って藩を抑えて禍いを防ぐようにと言った。また密かに奏上して燕王は知謀がありすぎる、そしてその拠点である北平は防御しやすく兵士も馬も強く金や元が興ったところです。今は領地を南昌に移した方が良い。そうすれば万が一のことがあっても牽制しやすい、すると帝は敬にこたえて燕王は近親ぞどうしてそんなことをしようかと。敬はいった、隋文揚広は父子ではないかと。敬の言葉は実に正しかった。揚広は子なのにその父を殺した。ましてや傲慢な燕王がなにをしてもおかしくはない。敬の言うことは情を欠き帝の~は純粋といって良かったが、世相は険悪で人情も地に落ちて悲しいことに敬の言葉はまことに的を射ていた。しかし帝はしばらく黙然として言った、もうよいから休んでいよ。
三月になって燕王は国に帰った。都御史の暴昭は燕邸のことを密偵して帝に申し上げた。
北平の按察使僉事の湯宗、按察使陳瑛が燕に買収されて燕のために謀ることを追及した。よって瑛を逮捕し都督宗忠をして兵三万を率いさせて燕王府の護衛の精鋭を忠の指揮下に組み入れ、開平に兵を集めて名目は~とし、都督の耿瓛に命じて兵を山海関に練り徐凱に兵を臨清に練り極秘裏に張昺謝貴に命じて厳しく北平の動きを監視させた。
燕王この勢いを国に帰ると病気だと言って外に出ず長い間すぎるうちに病が重くなったと称してこれにより人目を避けようとした。されども水のあるところには湿気が必ずあり、火があるところには熱気が必ずある。六月になって燕山の護衛百戸の倪諒という者が~燕の官校于諒周鐸らの陰謀を告げたので二人は捕らえられ都に至り罪を明らかにされた上で死刑となった。ここにおいてことは燕王も追及されざるを得なくなって詔によって燕王は非難された。
燕王は弁解できないと思ったのであろうか狂人を偽って、大声を出しながら疾走して、街の民家で飲み食いし、訳のわからぬことを言い、人を驚かして省みず、また地面に伏して時間がたっても眼を覚まさず全く正気を失ったかのようであった。張昺謝貴の二人が~病状はどうかと問うたが夏まっさかりだというのに王は~を~身を震わせて寒くてたまらないといい、宮中においても杖をついて歩いた。こんな風であったので燕王は本当に狂ったのだと思う者もいて、朝廷も少し信じることになったのだが、葛誠はひそかに昺と貴に告げて燕王の発狂は一時の緊張をゆるめ、後日の計画につなげるため偽ったにすぎず、もとから正気であると知らせた。たまたま燕王の護衛百戸の鄧庸という者がいて~に来て事情を述べたのを斉泰が~とらえて問いただしたところ王がまさに挙兵しようとしているのを洗いざらい話した。
~斉泰はただちに命令を発して~燕の府の役人を逮捕させ、密かに謝貴張昺をして燕府にいて内応を約束していた長史葛誠、指揮盧振と連絡をとって北平都指揮の張信という者を燕王が信頼しているのを利用して、密勅を下し、急に燕王を捕らえようとさせた。信は命を受けて憂鬱になってどうしたらいいかわからない、情誼を思えば燕王に背くことはできず、勅命を重んずれば私恩など論ずるに値しないの板挟みとなって、進むことも退くのも困難、どうしたらいいかわからなくなって決断できないその苦悶は顔にも表れた。母親がこれを見てどうしたのです、そんなにため息なぞついてと詰問した。信が仕方なく事情を話せば母親は大変驚いていった、いけない、おまえの父の興は常にこう言っていた、~燕王はおまえが捕まえる~燕王に背いて家を滅ぼすような真似をしてはなりませんと。信はいよいよ迷って決めかねているところへ勅使が信をしきりに促すので信はついに怒っていった、~。ついに決意して燕邸を訪れた。訪れること三度であったが燕王は彼を疑って会うのをやめて~入ることはできなかった。信は~すぐに門に着き謁見を求めようやく聞き入れられた。だが燕王はなお病気を装って口をきかなかった。信は言った、殿下そのようになさいますな、本当に一大事があるなら私に告げてください、殿下が情を汲んで私に語ってくれないのであれば、命令通り捕らえることになります、もし~私に隠さないでくださいと。燕王信が誠実なのを見て、玉座を下りて信を~して言った、我ら一族を救ってくれるのはおまえだと。信はつぶさに朝廷の燕を~とする状況を告げた。ここにおいて形勢は急転直下した。事態はすでに決裂した。燕王は道衍を召して、いよいよ反旗を翻そうとしていた。

 

※訳の〜は不明箇所です。

 

【原文】

建文元年正月、燕王長史葛誠をして入って事を奏せしむ。誠、帝の為に具に燕邸の実を告ぐ。こゝに於て誠を遣りて燕に還らしめ、内応を為さしむ。燕王覚って之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲す。皇道を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史曾鳳韶これを劾せしが、帝曰く、至親問う勿れと。戸部侍郎卓敬、先に書を上って藩を抑え禍を防がんことを言う。復密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平は、形勝の地にして、士馬精強に、金元の由って興るところなり、今宜しく封を南昌に徒したもうべし。然らば則ち万一の変あるも控制し易しと、帝敬に対えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此に及ぶことあらんやと。敬曰く、隋文揚広は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑す。燕王の傲慢なる、何をか為さゞらん。敬の言、敦厚を欠き、帝の意、醇正に近しと雖も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲む可きかな、敬の言却って実に切なり。然れども帝黙然たること良久しくして曰く、卿休せよと。

三月に至って燕王国に還る。都御史暴昭、燕邸の事を密偵して奏するあり。北平の按察使僉事の湯宗、按察使陳瑛が燕の金を受けて燕の為に謀ることを劾するあり。よって瑛を逮捕し、都督宗忠をして兵三万を率い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下に隷し、開平に屯して、名を辺に備うるに藉り、都督の耿瓛に命じて兵を山海関に練り、徐凱をして兵を臨清に練り、密に張昺謝貴に勅して、厳に北平の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視、国に帰れるより疾に托して出でず、之を久しゅうして遂に疾篤しと称し、以て一時の視聴を避けんとせり。されども水あるところ湿気無き能わず、火あるところは燥気無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒というもの変を上り、燕の官校于諒周鐸等の陰事を告げゝれば、二人は逮えられて京に至り、罪明らかにして誅せられぬ。こゝに於て事燕王に及ばざる能わず、詔ありて燕王を責む。燕王弁疏する能わざるところありけん、佯りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或は土壌に臥して、時を経れど覚めず、全く常を失えるものゝ如し。張昺謝貴の二人、入りて疾を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐を囲み、身を顫わせて、寒きこと甚しと曰い、宮中をさえ杖つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂う者もあり、朝廷も稍これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠ひそかに昺と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩くして、後日の計に便にせんまでの詐に過ぎず、本より恙無きのみ、と知らせたり。たま〳〵燕王の護衛百戸の鄧庸というもの、闕に詣り事を奏したりけるを、斉泰請いて執えて鞠問しけるに、王が将に兵を挙げんとするの状をば逐一に白したり。 

待設けたる斉泰は、たゞちに符を発し使を遣わし、往いて燕府の官属を逮捕せしめ、密に謝貴張昺をして、燕府に在りて内応を約せる長史葛誠、指揮盧振と気脈を通ぜしめ、北平都指揮張信というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執えしむ。信は命を受けて憂懼為すところを知らず、情誼を思えば燕王に負くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能わず、進退両難にして、行止ともに艱く、左思右慮、心終に決する能わねば、苦悶の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝の深憂太息することよ、と詰り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母大に驚いて曰く、不可なり、汝が父の興、毎に言えり王気燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能く擒にするところにあらざるなり、燕王に負いて家を滅することなかれと。信愈々惑いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信遂に怒って曰く、何ぞ太甚しきやと。乃ち意を決して燕邸に造る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径ちに門に至りて見ゆることを求め、ようやく召入れらる。されども燕王猶疾を装いて言わず。信曰く、殿下爾したもう無かれ、まことに事あらば当に臣に告げたもうべし、殿下もし情を以て臣に語りたまわずば、上命あり、当に執われに就きたもうべし、如し意あらば臣に諱みたもう勿れと。燕王信の誠あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍を召して、将に大事を挙げんとす。