日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」29

【訳】

景隆の幼名は九江だが、戦功もないのに大将軍となったのはなぜか。黄子澄、斉泰が推挙したのも別に理由のあることであった。

景隆は李文忠の子であって文忠は太祖の姉の子にしてなおかつ太祖の子となった者であった。これに加え文忠は重厚な人柄で学問を好み儒教を研究し家では慎み深く儒者のようでしかも~馬に乗り~戦陣に臨むと踔厲風発、強敵にあうとますます勇壮になり、十九歳より従軍し、しばしば手柄を立て、創業の元勲として太祖の重用するところとなったばかりでなく、西安に水道を設けて人を助け、応天では田租を減らして民を恵み、誅戮を少なくすることをすすめ、宦官を用いすぎないように諫め、洪武十五年太祖が日本の懐良親王の書に怒ってこれを討とうとしたのを止め、

(懐良親王が明史に良懐と記されているのは誤記である。懐良親王後醍醐天皇の皇子で、延元三年征西大将軍に任命され、筑紫を鎮撫した。菊池武光らがこれに従い、興国より正平の年間、その勢いは大変なものであった。明の太祖は領海が常に倭寇に侵されるのを怒って洪武十四年日本を征服すると威嚇したのに対し懐良親王は答えて書を寄越した。その概略をいうと、天地は広く一人のものではない、全世界は広く国を作ってこれを分かち守る。天下は天下の天下であり一人の天下ではない。自分が聞いたところでは朝廷は戦争を起こすために策があるし小さな国もまた敵を防ぐ用意があると。どうして~を受け取りましょう。言うことに従っても生きているとは限らないし逆らっても死ぬとは限らない~なにを怖れましょう。太祖この書を得て怒ること甚だしく本当に~。洪武十四年は我が国の南朝は弘和元年にあたる。この時親王は既に今川了俊の軍のために圧迫せられて勢いは衰え、征西将軍の職を後村上帝の皇子の良成王に譲り、筑後の矢部に閑居して、読経し仏に礼するを仕事にして、軍事のことは処理しておらず、年代に齟齬があるようだ。しかし親王と明との交渉はもう正平の末より始まっていたことであるから、親王の裁断で返事を書いたのかもしれない。このことは我が国に史料が全く欠けて大日本史も記載してないが向こうの史書が自らの威厳を傷つけたことを記しているのだから決して事実無根のいい加減な話ではない。)

~滅多にいない人物であった。洪武十七年、病死すると太祖は自ら~。景隆はこうした人物の長男でその父親の抜きん出た武勲と帝室の親戚との関係から斉泰と黄子澄が薦め建文帝が任命するところとなって五十万の大軍を統率することになった。

景隆は長身で眉目疎秀、雍容都雅、顧盻偉然、ぱっと見ただけでは大人物のようであったので、しばしば出兵し軍を湖広・陝西・河南で鍛え左軍都督府事となったが、ほかにはなすところもなく、戦功としては周王を捕らえただけであったが、帝をはじめ大臣等これを大器としたのであろう、しかし見かけは立派でも中味は伴っておらず、いわゆる治世の好将軍であり、戦場の真豪傑ではなく、血を踏み剣を揮って進み、傷を包み歯を食いしばって戦うような経験はいまだかつて積んだことがなく、燕王が笑って評したのもまことにもっともなことであった。

 

※訳文中の〜は不明箇所。

 


【原文】景隆小字は九江、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦むるに因るも、又別に所以有るなり。景隆は李文忠の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経を治め、其の家居するや恂々として儒者の如く、而も甲を擐き馬に騎り槊を横たえて陣に臨むや、踔厲風発、大敵に遇いて益壮に、年十九より軍に従いて数々偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重するところとなれるのみならず、西安に水道を設けては人を利し、応天に田租を減じては民を恵み、誅戮を少くすることを勧め、宦官を盛んにすることを諫め、洪武十五年、太祖日本懐良王の書に激して之を討たんとせるを止め、

(懐良王、明史に良懐に作るは蓋し誤也。懐良王は、後醍醐帝の皇子、延元三年、征西大将軍に任じ、筑紫を鎮撫す。菊池武光等之に従い、興国より正平に及び、勢威大に張る。明の太祖の辺海毎に和寇に擾さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以て威嚇するや、王答うるに書を以てす。其略に曰く、乾坤は浩蕩たり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪なり、諸邦を作して以て分守す。蓋し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也。吾聞く、天朝戦を興すの策ありと、小邦亦敵を禦ぐの図あり。豈肯て途に跪いて之を奉ぜんや。之に順うも未だ其生を必せず、之に逆うも未だ其死を必せず、相逢う賀蘭山前、聊以て博戯せん、吾何をか懼れんやと。太祖書を得て慍ること甚だしく、真に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和元年に当る。時に王既に今川了俊の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝の皇子良成王に譲り、筑後矢部に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務をば執りたまわず、年代齟齬するに似たり。然れども王と明との交渉は夙に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此事我が国に史料全く欠け、大日本史も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚にあらず。)

一個優秀の風格、多く得可からざるの人なり。洪武十七年、疾を得て死するや、太祖親しく文を為りて祭を致し、岐陽王に追封し、武靖と諡し、太廟に配享したり。景隆は是の如き人の長子にして、其父の蓋世の武勲と、帝室の親眷との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統ぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀、雍容都雅、顧盻偉然、卒爾に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡出でゝ軍を湖広陝西河南に練り、左軍都督府事となりたるほかには、為すところも無く、其功としては周王を執えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮にして羊質、所謂治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を蹀み剣を揮いて進み、創を裹み歯を切って闘うが如き経験は、未だ曾て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其真を得たりしなり。