日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」50

【訳】

歴史を繙き、戦争のことを記すことにも疲れた。

燕王は挙兵から四年、ついにその志を果たした。これは天意か、人望か、運命か、勢いか、それとも必然の理があったのか。

鄒公瑾ら十八人は殿前において李景隆を殴って半死半生にしたが、なんの益にもならぬことであった。建文帝は、金川門の守りがなくなったのを知って天を仰いで嘆き、東西に走り迷い、自殺しようとなさった。明史の恭閔恵皇帝紀にはこう記してある、

宮中に火災が発生し、帝は行方不明になったと。皇后の馬氏は火に入って亡くなられた。

丙寅、諸王と文武の廷臣は、燕王に帝位につくように要請した。燕王は何度も断ったが諸王と群臣は頓首して強く求めた。王はついに奉天殿に詣りて、皇帝の位についた。

これより前、建文年間に道士がいて道すがら歌っていった、

燕を追うな

燕を追うな

燕を追えば、日ごとに高く飛んで

天子のいるところまで上っていくぞ。

事ここにいたって人はこの言葉と呼応しているのを知った。

今や皇帝となった燕王は、宮人と側近を詰って、建文帝の所在を問いなされたが、みな馬皇后のお亡くなりになったところを指さして応えた。そこで屍を灰燼の中から出して、これを嘆き、翰林侍読の王景を召して葬礼はどうしたらいいかとお聞きになった。王景はこたえていった、天子の礼に倣うがよろしいと。そこでその通りに従った。

建文帝の父、興宗孝康皇帝の廟号を取り去り、もとの諡により懿文皇太子と号し、建文帝の弟、呉王・允熥を降格して広沢王とし、衛王・允熞を懐恩王とし、除王・允凞を敷恵王とし、ついで庶民としたが諸王は後に皆横死した。建文帝の少子は中都の広安宮に幽閉せられたが、その後は不明である。

 


【原文】

史を按じて兵馬の事を記す、筆墨も亦倦みたり。燕王事を挙げてより四年、遂に其志を得たり。天意か、人望か、数か、勢か、将又理の応に然るべきものあるか。鄒公瑾等十八人、殿前に於て李景隆を殴って幾ど死せしむるに至りしも、亦益無きのみ。

帝、金川門の守を失いしを知りて、天を仰いで長吁し、東西に走り迷いて、自殺せんとしたもう。明史、恭閔恵皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后馬氏は火に赴いて死したもう。

丙寅、諸王及び文武の臣、燕王に位に即かんことを請う。燕王辞すること再三、諸王羣臣、頓首して固く請う。王遂に奉天殿に詣りて、皇帝の位に即く。是より先建文中、道士ありて、途に歌って曰く、

燕を逐ふ莫れ、

燕を逐ふ莫れ。

燕を逐へば、日に高く飛び、高く飛びで、帝畿に上らん。 

是に至りて人其言の応を知りぬ。

燕王今は帝たり、宮人内侍を詰りて、建文帝の所在を問いたもうに、皆馬皇后の死したまえるところを指して応う。乃ち屍を煨燼中より出して、之を哭し、翰林侍読王景を召して、葬礼まさに如何すべき、と問いたもう。景対えて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。 

建文帝の皇考興宗孝康皇帝の廟号を去り、旧の諡に仍りて、懿文皇太子と号し、建文帝の弟呉王允熥を降して広沢王とし、衛王允熞を懐恩王となし、除王允凞を敷恵王となし、尋で復庶人と為ししが、諸王後皆其死を得ず。建文帝の少子は中都広安宮に幽せられしが、後終るところを知らず。