【掌小説】蛍
夫が亡くなりましたのはもうかれこれ10年になりますか、はい、そうです、高校の英語の教師でした。退職してからは翻訳の仕事をして本も何冊か出しました。それはもう根っからの学者肌といいましょうか、分厚い辞書に囲まれて朝から晩まで机に向かっておりました。
亡くなる一週間前でしたか、病院のベッドの中でこういいました。
ほんとうに幽霊というものがいるなら、俺が死んだら閻魔大王に頼んで必ず幽霊になってでるからおまえよくみておけ。カメラがあったろう。あれを枕元にでも置いていつでもとれるようにしておけ
足がなくなってるかもしれんがそれはきっと俺だからな、いいか忘れるな
そう言い残して亡くなりました。
当時は幽霊なんて縁起でもないと思っておりましたが・・・それでも言われた通り枕元にカメラを置いて、いつでも撮れるようにして、寝ていたのでございます。
一週間たち、一ヶ月たちました。
けれどちっとも現れない、なんだやっぱり幽霊なんていないんだ、
ほっとしたような、がっかりしたような、そんな気持ちでした。
そのうち枕元に置いていたカメラが面白くなって、はい、おかしなものでございます、それまで全然写真には興味がなかったのに・・・それで急に庭の花をとるようになりました。
そんなある晩のことでした。
そろそろ寝ようとして戸締りをしていますと突然目の前をすう、と青い光が流れました。
光一さん?
私はとっさに思いました。
けれど違いました
蛍が一匹、庭から入ってきたのです。
はい、私のすんでいるところはまだ川も綺麗でこの時期になるとよく見かけるのです。
おそらくその蛍もたまたま窓から入ってきたのでございましょう。
けれどそのときわたしはあの人だと思ったのです。
蛍は部屋を抜け廊下にでると薄暗い中ふわり、ふわりと光りながらとんでいきます
蛍というのは、あれは、不思議なものでございますね。
近くでみると小さい虫なのにあんなに光だけになってうまく闇を流すのでございますから。
蛍はそうして廊下を抜けて、窓のカーテンレールにかけてあった私のセーターにくっつきました。
そうして暗い中じっと青白く点滅しています。
わたしはしばらく廊下にしゃがんでそれを見上げておりました。
ふと下を見ると曇りガラスがなんだか紅く染まっています。なんだろうと思いまして立ち上がって外をみますと向こうの家の壁が一面に紅に染まって・・・火事かと最初びっくりしましたがそれにしては静かなもので人の声もいたしません。
そうしてやっと気づきました。
なんのことはない、そこは交差点で信号の赤がそこらを紅く見せているのでした。
蛍は相変わらずかけてある服の背にとまって光っております。
私は手のひらをお椀の形にするとそっと蛍を両の手に包みました。
蛍は逃げもせずあっさり取れてぼうっと手の中の光が青くなったり暗くなったりを繰り返して
放したくなかったのですが、蛍の命は短いと聞いております。
ここにいても明日の朝には死んでしまうだろう、やはり外に放したほうがいい、そう考えて窓をあけて円くした両手を開きました。
けれど手にくっついたまま一向に飛び立たない、いくら手を振ってもしがみつくばかり、私は無理に放すのをやめて、また部屋に戻りました。
蛍光灯の下で見ますとそれはもうなんてことないただの虫で、橙色の頭のところに黒いすじが縦に通って、ほほ、当たり前ですね、蛍ですもの。
それから寝間の上に座って、幹夫のことをー幹夫というのは私の息子で今東京の大学に通っておりますー何やらぶつぶつ、呟いていた記憶がございます。
そのぶつぶつが終わった頃、蛍が急に手から飛び立って、はい、こんどはすぐにひゅうとすぐに開いた窓から出て見えなくなりました。
私はぼんやりしていて、後になってから写真を撮ればよかったと悔いたのです。
はい、私は幽霊を見たのではございません
ただ感じたのです。あの人だ、あの人がここにいると。
生きている者の住んでいるのがこの世です。この世が私のすべてでございます。ですからあの世のことまでは私にはわかりません。ただなにかしら、あの世とこの世をつなぐトンネルのようなものがあるように思うのです。見えないけれどそこに神様がいると感じるようなときがあるのです。あのときもそうだった。
貴方は非科学的だとお笑いになるでしょう。
でも私にとってはそうじゃない。目に見えずとも自分を守ってくれている、そんな風に気づくときがあるのです。幼いときから病気がちであった私がここまでやってこれたのはそのせいでございます。
最近、写真仲間ができました。
これからも一日一日を大事にして生きていこうと思っております。