日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴「運命」50

【訳】

歴史を繙き、戦争のことを記すことにも疲れた。

燕王は挙兵から四年、ついにその志を果たした。これは天意か、人望か、運命か、勢いか、それとも必然の理があったのか。

鄒公瑾ら十八人は殿前において李景隆を殴って半死半生にしたが、なんの益にもならぬことであった。建文帝は、金川門の守りがなくなったのを知って天を仰いで嘆き、東西に走り迷い、自殺しようとなさった。明史の恭閔恵皇帝紀にはこう記してある、

宮中に火災が発生し、帝は行方不明になったと。皇后の馬氏は火に入って亡くなられた。

丙寅、諸王と文武の廷臣は、燕王に帝位につくように要請した。燕王は何度も断ったが諸王と群臣は頓首して強く求めた。王はついに奉天殿に詣りて、皇帝の位についた。

これより前、建文年間に道士がいて道すがら歌っていった、

燕を追うな

燕を追うな

燕を追えば、日ごとに高く飛んで

天子のいるところまで上っていくぞ。

事ここにいたって人はこの言葉と呼応しているのを知った。

今や皇帝となった燕王は、宮人と側近を詰って、建文帝の所在を問いなされたが、みな馬皇后のお亡くなりになったところを指さして応えた。そこで屍を灰燼の中から出して、これを嘆き、翰林侍読の王景を召して葬礼はどうしたらいいかとお聞きになった。王景はこたえていった、天子の礼に倣うがよろしいと。そこでその通りに従った。

建文帝の父、興宗孝康皇帝の廟号を取り去り、もとの諡により懿文皇太子と号し、建文帝の弟、呉王・允熥を降格して広沢王とし、衛王・允熞を懐恩王とし、除王・允凞を敷恵王とし、ついで庶民としたが諸王は後に皆横死した。建文帝の少子は中都の広安宮に幽閉せられたが、その後は不明である。

 


【原文】

史を按じて兵馬の事を記す、筆墨も亦倦みたり。燕王事を挙げてより四年、遂に其志を得たり。天意か、人望か、数か、勢か、将又理の応に然るべきものあるか。鄒公瑾等十八人、殿前に於て李景隆を殴って幾ど死せしむるに至りしも、亦益無きのみ。

帝、金川門の守を失いしを知りて、天を仰いで長吁し、東西に走り迷いて、自殺せんとしたもう。明史、恭閔恵皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后馬氏は火に赴いて死したもう。

丙寅、諸王及び文武の臣、燕王に位に即かんことを請う。燕王辞すること再三、諸王羣臣、頓首して固く請う。王遂に奉天殿に詣りて、皇帝の位に即く。是より先建文中、道士ありて、途に歌って曰く、

燕を逐ふ莫れ、

燕を逐ふ莫れ。

燕を逐へば、日に高く飛び、高く飛びで、帝畿に上らん。 

是に至りて人其言の応を知りぬ。

燕王今は帝たり、宮人内侍を詰りて、建文帝の所在を問いたもうに、皆馬皇后の死したまえるところを指して応う。乃ち屍を煨燼中より出して、之を哭し、翰林侍読王景を召して、葬礼まさに如何すべき、と問いたもう。景対えて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。 

建文帝の皇考興宗孝康皇帝の廟号を去り、旧の諡に仍りて、懿文皇太子と号し、建文帝の弟呉王允熥を降して広沢王とし、衛王允熞を懐恩王となし、除王允凞を敷恵王となし、尋で復庶人と為ししが、諸王後皆其死を得ず。建文帝の少子は中都広安宮に幽せられしが、後終るところを知らず。

幸田露伴【運命】49

【訳】

五月、燕兵は泗州に至った。守将の周景初は降伏した。燕軍は進んで淮河に着いた。盛庸はこれを防ぐことができず、戦艦はみな燕の得るところとなり、盱眙も陥落した。燕王は諸将の建言を排してすぐに楊州に赴く。揚州の守将の王礼と弟の宗は監察御史の王彬を捕縛して門を開き降伏した。高郵、通泰、儀真の諸城も皆降伏し、北軍の艦船は淮河に往来して、その勢いは天をも揺るがすほどであった。

朝廷の大臣たちは保身を考え、これに刃向かい戦おうとする者はいなかった。方孝孺は土地を燕に割譲して、敵の進軍速度を遅らせ、その間に東南の義軍が来るのを待とうとした。そのため慶城郡主を使わし和議を結ぼうとした。慶城郡主は燕王の従姉である。燕王は従姉の話を聴こうとせずにいった、皇考が分かちなされた私の土地も保てないのですよ、どうしてさらに割譲などを望むものか、私はただ奸臣をつかまえてから、陵墓に〜たいのです。

六月、燕の軍勢は浦子口に着いた。盛庸らはこれを破った。この時建文帝は都督僉事の陳瑄を遣わし水軍を率いて盛庸に協力させたのだが、その後陳瑄は逆に燕に投降してしまい、船を準備して迎えた。燕王は河の神を祀り~て長江を渡った。多くの船が次々に長江を進み、鉦や太鼓が盛んに鳴らされる。盛庸らは兵船を連ねていたが全員これを見て驚愕した。燕王が諸将を指揮し、太鼓が鳴り鬨の声をあがって先陣を切ると盛庸の軍は潰滅し、その船は全部燕軍のものとなった。鎮江の守将・童俊はなすすべなく燕に降伏した。

建文帝は長江の船も敵に使われ、鎮江などの諸城がみな降伏したのを聞いて、憂鬱になりなにか策がないか方孝孺にたずねた。方孝孺は民をせき立てて城に入れ、諸王に門を守らせた。李景隆たちは燕王に見えて土地の割譲で説得しようとしたが王は応じない。

そうこうするうちに燕の軍勢はいよいよ迫ってくる。

群臣の中には帝に淅川に行幸されるよう勧める者もいたし、あるいは湖湘に行かれた方が良いですという者もいた。そんな中、方孝孺は堅く南京を守って勤皇の義軍が救援に来るのを待ち、緊急の場合は車に乗り蜀に行幸して、再起を図られるよう建文帝に求めた。その時斉泰は広徳に、黄子澄は蘇州に行って徴兵を促していた。だが二人とも実務の才がなく、兵を集めることはできなかった。黄子澄は海を渡り外国で徴兵しようとしたが果たせなかった。

そのうち燕将の劉保、華聚らがついに朝陽門に至り、なんの備えもしてないのを見て戻ってこれを知らせた。燕王は大いに喜んで兵を整えて進軍し、金川門に来た。金川門は谷王・朱橞と李景隆が守っていたが、燕軍が来ると門を開いて投降した。魏国公・徐輝祖は最後まで屈服せず、軍を率いて迎撃した。だが勝つことはできなかった。朝廷の文官武官全員が降伏し燕王を迎えた。

 

※訳文中の〜は不明箇所。


【原文】

五月、燕兵泗州に至る。守将周景初降る。燕の師進んで淮に至る。盛庸防ぐ能わず、戦艦皆燕の獲るところとなり、盱眙陥れらる。燕王諸将の策を排して、直に揚州に趨く。揚州の守将王礼と弟宗と、監察御史王彬を縛して門を開いて降る。高郵、通泰、儀真の諸城、亦皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓天を蔽うに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計を為して、復立って争わんとする者無し。方孝孺、地を割きて燕に与え、敵の師を緩うして、東南の募兵の至るを俟たんとす。乃ち慶城郡主を遣りて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉なり。燕王聴かずして曰く、皇考の分ちたまえる吾地も且保つ能わざらんとせり、何ぞ更に地を割くを望まん、たゞ奸臣を得るの後、孝陵に謁せんと。

六月、燕師浦子口に至る。盛庸等之を破る。帝都督僉事陳瑄を遣りて舟師を率いて庸を援けしむるに、瑄却って燕に降り、舟を具えて迎う。燕王乃ち江神を祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫相銜みて、金鼓大に震う。盛庸等海舟に兵を列せるも、皆大に驚き愕く。燕王諸将を麾き、鼓譟して先登す。庸の師潰え、海舟皆其の得るところとなる。鎮江の守将童俊、為す能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用を為し、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱して計を方孝孺に問う。孝孺民を駆りて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆等燕王に見えて割地の事を説くも、王応ぜず。勢いよ〳〵逼る。群臣或は帝に勧むるに淅に幸するを以てするあり、或は湖湘に幸するに若かずとするあり。方孝孺堅く京を守りて勤王の師の来り援くるを待ち、事若し急ならば、車駕蜀に幸して、後挙を為さんことを請う。時に斉泰は広徳に奔り、黄子澄は蘇州に奔り、徴兵を促す。蓋し二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋に徴さんとして果さず。

燕将劉保、華聚等、終に朝陽門に至り、備無きを覘いて還りて報ず。燕王大に喜び、兵を整えて進む。金川門に至る。谷王橞と李景隆と、金川門を守る。燕兵至るに及んで、遂に門を開いて降る。魏国公徐輝祖屈せず、師を率いて迎え戦う。克つ能わず。朝廷文武皆倶に降って燕王を迎う。

 

【感想メモ】

・「大事去る」

霊壁の戦いで南軍に潰滅的なダメージを与えた北軍は破竹の勢いで次々に城を落としていき、なにやら消化試合という印象。
盛庸もいったんは勝つものの陳瑄が配下の水軍ともども寝返ってしまった。おかげで北軍は長江を渡れた。南軍は勝ってもすぐまた負けるのはこの内戦におけるパターンである。

・従姉による和議の申し入れを兵を集めるための時間稼ぎと見抜いた燕王はこれを一蹴しひたすら南京を目指す。敵に立て直しのための時間を与えない作戦だ。

・それにしてもドミノ倒しのように次々に降伏して情けない。建文帝はこの頃には味方から見放されていたようだ。

・李景隆は最後までいいとこなし。

・味方が次々に投降する中で、屈せず最後まで戦った徐輝祖の姿は胸に迫る。あのとき自分が南京に戻っていなかったら、という思いがあったかもしれない。「克つ能わず」は無念さが伝わってくる。
かくして4年に渡る靖難の役はここに終止符を打った。

幸田露伴【運命】48 「霊璧の戦い」

【訳】

こうして対陣し日を重ねるうち、南軍に食料が大量に輸送されるとの知らせが入った。

燕王は喜んでいった、敵は必ず兵を分けてこれを守るだろう、兵が分かれて勢いが弱くなったのに乗じれば支えることなどできはしないといって、そう言って朱栄、劉江らを遣わして軽騎兵を率いて糧道を切らせ、また遊騎兵で採薪を妨げ混乱させた。

何福は営を霊璧に移した。

南軍の兵糧は五万、平安は馬歩六万を率いてこれを守り、兵糧を背負う者をその中にいさせた。

燕王は壮士一万人を分けて敵の援軍を遮り、子の高煦に兵を林に隠れさせ、敵が戦って疲れたら出て攻撃しろと命じて、自ら軍団を率いて迎撃し騎兵を両翼とした。

平安は軍を率いて突撃し、燕兵千人余りを殺したが、王は歩兵を指揮し猛攻、その陣を横に貫き、分断して二つに分けたので南軍はついに乱れた。

何福らはこれを見て平安と合流、燕兵数千を殺してこれを退けたが、高煦は南軍の疲れたのを見て林間より飛び出て、意気軒昂に攻撃し、王も兵を返し追い討ちをかけた。

ここにおいて南軍は大敗し、殺傷された者は一万余り、馬三千頭余りを失い、食料は全て燕軍に奪われた。

何福らは残った兵を率いて営に入って門を閉じて固く守った。何福がその夜命令して言うには、明朝砲声を三回聞いたら包囲を突いて出て~

しかしこれまた天か命か、翌日燕軍は霊璧の営を攻めるのにあたって、燕兵が偶然三回砲撃した。

南軍は誤ってこれを自軍の砲声だと勘違いし、争って急に門に向かったが、もとより自軍の号砲ではなかったので門は塞がっていた。

前の者は出ることができず、後ろの者は急いで出ようとする。営の中は乱れ、人馬が転倒する有様となった。

燕兵はこれを急襲し、ついに営を破って迅速に囲み、攻撃した。

ここに至って南軍は大敗を免れなくなった。

宗垣、陳性善、彭与明は死に、何福は逃げ去り、陳暉、平安、馬溥、徐真、孫晟、王貴らは皆捕らえられた。平安が捕縛されると、燕の兵たちは歓呼してその声は地を揺るがした。兵たちが言うには、これからは楽に戦えるだろう。そうして口々に平安を処刑するよう王に求めた。それというのも平安が多くの燕兵を殺し、数人の勇将を斬ったからである。だが燕王は彼の武勇を惜しんで殺すのを許さなかった。

王は平安に問うていった、淝河での戦いでもし貴公の馬がつまずかなかったら私をどうしていたか。

平安はいった、殿下を刺すことは朽ち木をくだくほど訳のないことだったでしょう。王は大きく息をつき言った、高皇帝はうまく壮士を養いなされたものだ。

王は勇士を選んで平安を北平に護送し世子に見守らせた。平安はその後永楽七年になって自殺した。平安らを失ってから南軍の勢いは大いに衰えた。

黄子澄は霊璧での敗北を聞いて、胸を叩き慟哭して言った、

大勢は決した、私は万死に値する、国を誤らせた罪を償うことはできない。

※訳文中の〜は不明箇所。

 

【原文】

かくて対塁日を累ぬる中、南軍に糧餉大に至るの報あり。燕王悦んで曰く、敵必ず兵を分ちて之を護らん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何で能く支えんや、と朱栄、劉江等を遣りて、軽騎を率いて、餉道を截らしめ、又游騎をして樵採を妨げ擾さしむ。

何福乃ち営を霊壁に移す。南軍の糧五方、平安馬歩六万を帥いて之を護り、糧を負うものをして中に居らしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵を遮らしめ、子高煦をして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば出でゝ撃つべしと命じ、躬ずから師を率いて逆え戦い、騎兵を両翼と為す。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王歩軍を麾いて縦撃し、其陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍遂に乱れたり。何福等此を見て安と合撃し、燕兵数千を殺して之を却けしが、高煦は南軍の罷れたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵を還して掩い撃ちたり。

是に於て南軍大に敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹を喪い、糧餉尽く燕の師に獲らる。

福等は余衆を率いて営に入り、塁門を塞ぎて堅守しけるが、福此夜令を下して、明旦砲声三たびするを聞かば、囲を突いて出で、糧に淮河に就くべし、と示したり。

然るに此も亦天か命か、其翌日燕軍霊壁の営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤って此を我砲となし、争って急に門に趨きしが、元より我が号砲ならざれば、門は塞がりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中紛擾し、人馬滾転す。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷を極む。南軍こゝに至って大敗収む可からず。宗垣、陳性善、彭与明は死し、何福は遁れ走り、陳暉、平安、馬溥、徐真、孫晟、王貴等、皆執えらる。

平安の俘となるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等此より安きを獲んと。争って安を殺さんことを請う。安が数々燕兵を破り、驍将を斬る数人なりしを以てなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、淝河の戦、公の馬躓かずんば、何以に我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、朽を拉ぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、好く壮士を養いたまえりと。

勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をして善く之を視せしむ。

安後永楽七年に至りて自殺す。安等を喪いてより、南軍大に衰う。

黄子澄、霊壁の敗を聞き、胸を撫して大慟して曰く、大事去る、吾輩万死、国を誤るの罪を贖うに足らずと。

幸田露伴【運命】メモ

・兵力、物量のいずれにおいても燕王軍を凌いでいた明軍が燕軍に敗れ、永楽帝のクーデターが成功した理由として、皇帝側には洪武帝時代のたび重なる粛清で有能な将軍が少なかったためと言われる。燕王側は北方のモンゴルに対する防備に従事していた精鋭軍で、軍師の姚広孝(道衍)、丘福・朱能・張玉や、永楽帝の次男の朱高煦といった有能な武将や参謀と評価される人材が揃っていた。これに対し、建文帝には側近の斉泰や黄子澄のほか、李景隆(李文忠の子)や方孝孺といった文官しかいなかった。また、建文帝の温和な性格や永楽帝の軍事的資質も指摘される。(wikiより)

 

建文帝は叔父の永楽帝のような軍才はないから優秀な軍師なり将軍が必要だったんだけどそれがいなかったね。

叔父を殺すなという命令も自軍の足を思い切り引っ張ったし。

最後まで数の利を活かせなかった。

更に付け加えると宮廷の宦官たちが燕に機密情報を流していたことも大きかったと思う。

結局燕王軍の最大のピンチって連敗して南方の蒸し暑さに参って人心が燕王から離れかけたときじゃないか?

あの時は軍がバラバラになる寸前までいったからね。

 

洪武帝の粛清についてはここが詳しい。

胡藍の獄(こらんのごく)

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2639800

 

 

幸田露伴【運命】47

【訳】

燕軍の戦況は芳しくなく、王も甲をつけたまま数日起居したというものの、将兵の心は一つとなって士気は上がった。それに対し、南軍は連勝したにもかかわらず、士気は下がった。

天意と言うべきか、それとも時運と言うべきであろうか。燕軍が連敗したことが南京政府にも聞こえると、廷臣の中に、燕軍は今はもう北に帰ろうとしています、それなのに南京は無防備なままです、良い将軍がいなくてはいけませんと言う者がいて朝議で徐輝祖を召還なされたのである。

徐輝祖がやむを得ず南京に帰ってしまったので、何福の軍の勢いは弱まり、単糸線とならず、孤掌鳴りがたしの諺のように孤立してしまった。

これに加え、南軍は北軍の騎兵の突撃に備え塹壕を掘り、塁壁を作って営することが常であったため、兵は休息する暇が少なく、往々にして虚しく体力を消耗し、兵は疲れうんざりしていた。それに対し、燕王の軍は塹壕や塁壁を作らず、ただ部隊を配置し、隊列を作って門としていた。そのため将兵は陣営に来れば、すぐ休息することができたし、暇があれば王は猟に出かけて周辺の地勢を見て回り、鳥を得れば将兵に分かち与え、陣地をとるたび、得た財物を全て褒美として授けた。南軍と北軍の事情はこれほど違っていた。

一方は労役につくのを苦しみ、もう一方は用をなすのを楽しむ。両軍のこの差が勝敗に影響しないわけがなかった。

 

【原文】

燕軍の勢非にして、王の甲を解かざるもの数日なりと雖も、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷すと雖も、兵気は悪変せり。

天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の中に、燕今は且に北に還るべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議徐輝祖を召還したもう。

輝祖已むを得ずして京に帰りければ、何福の軍の勢殺げて、単糸の紉少く、孤掌の鳴り難き状を現わしぬ。

加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突に備うる為に塹濠を掘り、塁壁を作りて営と為すを常としければ、軍兵休息の暇少く、往々虚しく人力を耗すの憾ありて、士卒困罷退屈の情あり。燕王の軍は塹塁を為らず、たゞ隊伍を分布し、陣を列して門と為す。故に将士は営に至れば、即ち休息するを得、暇あれば王射猟して地勢を周覧し、禽を得れば将士に頒ち、塁を抜くごとに悉く獲るところの財物を賚う。

南軍と北軍と、軍情おのずから異なること是の如し。一は人役に就くを苦み、一は人用を為すを楽む。彼此の差、勝敗に影響せずんばあらず。

 

【感想メモ】

これはないわー。
なんでこんなデタラメを信じて徐輝祖を召還しちゃったのか。

納得いかんでしょう徐輝祖も他の将兵も。

誤報を流したのは宮廷の内通者の仕業かと思い、調べたがわからなかった。

確かなのは南軍は情報戦でも負けたということ。

幸田露伴【運命】46

【訳】

ここにおいて南軍は橋南にとどまり、北軍は橋北にとどまり、対峙して数日すると、南軍は兵糧が尽きて、蕪を採って食べはじめた。燕王はいった、南軍は飢えたぞ、さらに一二日して食糧が集まったらこれを破るのは簡単ではない。

そこで千人余りの兵で橋を守らせ、ひそかに軍を移動させ夜半に兵に河を渡らせて敵の背後に回り込んだ。

その時、徐輝祖の軍が到着した。~斉眉山で戦った。昼から夕方になって勝敗~燕の勇将・李斌が戦死した。燕はまた勝つことができなかった。南軍はまた勝って奮い立ち、燕は陳文、王真、韓貴、李斌らを失い諸将は皆おののいた。

諸将は燕王に説いて言った、我が軍は敵地に深く入り込んでしまいました、暑い中雨が延々と降って、ここ淮河の土地は蒸して伝染病がだんだん流行してきてます。しかし小河の東は、平野で牛や羊が多く、大麦と小麦が実っております。河を渡って土地を選んで、兵士と馬を休息させ、敵の隙を見て動いた方がよろしいかと。

これに対し燕王はいった、兵は進むだけで退くことはならぬ。勝てる形ができていながらまた北に渡ってしまったら将兵の心は離れてしまうに決まっている、お前たちの~。

そうして命令を下していった、北に行こうとする者は左にいけ、北に行かないものは右に行け。諸将の多くは左に行った。燕王は激怒していった、お前たち~

このとき燕軍の勢いは、実に危うくまさに崩れようという危機にあった。孤立無援のまま長い距離を駆けて深く敵地に入ってしまいどこにも友軍はいない、北平からは遠く離れて、しかも拠点の周囲はみな敵ばかりである。燕軍は戦って勝てばいいが、勝たなければ自らを支えるものがない。こうした中、当面の敵である何福は兵が多く力戦しており、徐輝祖は堅実で隙がなく、平安は勇猛でしかも意表をついてくる。燕軍は再戦してまた負けて、猛将も多く戦死し、多くの者はみな不安になっている。戦おうと欲しても力が足らないし、北に帰ろうとすればこれまでの戦功はすべてなかったことになり、なんとも振るわない形勢になってしまいそうである。将兵を無理に戦わせようとすれば人心は離れ、不測の事態を生ずるかもしれない。諸将が争って左に行くのを見て燕王が怒るのも無理はなかった。

しかしこのときの時勢はただ撤退してはならぬということのみであって、燕王が周囲の者の意見を受け入れずに敢然として奮戦しようとしたのは、洞察力・決断力ともに実に豪傑の気性であり、腹の据わったところを見せた以外の何物でもない。

この時、座に朱能がいた。朱能は張玉とともにはじめから燕王の腹心であった。諸将のうちでもっとも若かったが、よく戦い功を立て、人望を集めていた。

身長は八尺で年齢は三五歳、武勇に優れ心広く、孝行かつ人情に厚い人柄であった。

朱能はこの事態を嘆いて立ちあがり、剣に手をかけ言った、諸君、奮起しようではないか、昔、漢の高祖は十回戦って九回敗れたが遂に天下をとった、挙兵して連勝したというのに、こんなことで挫けて帰ったらどうやって臣下として仕えるというのか。諸君は武勇に優れ誠実である、ここで撤退なぞするわけにはいかない、そうではないかと言ったので、諸将は互いに顔を合わせ反論する者はいなかった。かくして全軍、心機一転して、命がけで王に従おうと決意した。

朱能は後に龍州に死んで、東平王の爵位を与えられたが、これは決して偶然ではない。

 

※訳文中の〜は不明箇所。

 

【原文】

是に於て南軍は橋南に駐まり、北軍は橋北に駐まり、相持するもの数日、南軍糧尽きて、蕪を採って食う。燕王曰く、南軍飢えたり、更に一二日にして糧やゝ集まらば破り易からずと。乃ち兵千余を留めて橋を守らしめ、潜に軍を移し、夜半に兵を渡らしめて繞って敵の後に出づ。時に徐輝祖の軍至る。甲戌大に斉眉山に戦う。午より酉に至りて、勝負相当り、燕の驍将李斌死す。燕復遂に克つ能わず。南軍再捷して振い、燕は陳文、王真、韓貴、李斌等を失い、諸将皆懼る。

燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土湿蒸に、疾疫漸く冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二麦まさに熟せんとす。河を渡り地を択み、士馬を休息せしめ、隙を観て動くべきなりと。

燕王曰く、兵の事は進ありて退無し。勝形成りて而して復北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣するのみと。

乃ち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に趨る。王大に怒って曰く、公等みずから之を為せと。

此時や燕の軍の勢、実に岌々乎として将に崩れんとするの危に居れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠にして、而も本拠の四囲亦皆敵たる也。燕の軍戦って克てば則ち可、克たずんば自ら支うる無き也。而して当面の敵たる何福は兵多くして力戦し、徐輝祖は堅実にして隙無く、平安は驍勇にして奇を出す。我軍は再戦して再挫し、猛将多く亡びて、衆心疑懼す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功尽く廃りて、不振の形勢新に見われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離、不測の変を生ずる無きを保せず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦宜なりというべし。

然れども此時の勢、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看る明確、事を断ずる勇決、実に是れ豪傑の気象、鉄石の心膓を見わせるものならずして何ぞや。

時に坐に朱能あり、能は張玉と共に初より王の左右の手たり。諸将の中に於て年最も少しと雖も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長八尺、年三十五、雄毅開豁、孝友敦厚の人たり。慨然として席を立ち、剣を按じて右に趨きて曰く、諸君乞うらくは勉めよ、昔漢高は十たび戦って九たび敗れぬれど終に天下を有したり、今事を挙げてより連に勝を得たるに、小挫して輙ち帰らば、更に能く北面して人に事えんや。諸君雄豪誠実、豈退心あるべけんや、と云いければ、諸将相見て敢て言うものあらず、全軍の心機一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。

朱能後に龍州に死して、東平王に追封せらるゝに至りしもの、豈偶然ならんや。

 

【感想メモ】

・1402年4月斉眉山の戦い。南軍は北軍を連破。徐輝祖、普通に強いな。

・連敗し、暑くじめじめしたアウェーでの戦いに弱気になった諸将は北に引き上げて様子見しようというが燕王は許さない。踏ん張りどころである。

・朱能が諸将を説得。燕王はつくづくいい部下に恵まれている。

幸田露伴【運命】45

【訳】

建文四年正月、燕の先鋒・李遠は徳州の副将であった葛進を滹沱河に破り、朱能もまた平安の将・賈栄らを衡水に破ってこれを捕虜にした。

燕王はすぐに館陶より河を渡って東阿を攻め、汶上を攻め、沛県を攻めて攻略し、ついに徐州へ進み城兵を威して出られないようにして南へ下り、三月には宿州に至り、平安が馬歩兵四万を率いて追ってきたのを淝河で破り、平安の部下の番将・火耳灰(ホルフイ)を捕らえた。

この戦いで火耳灰は矛をとって燕王に迫った。

あと十歩ばかりのところで童信が矢を射って火耳灰の馬にあてた。

馬は倒れて王は逃れ、火耳灰を捕えた。

王はすぐに火耳灰を許し、その夜護衛させた。

諸将はこれをみて危険だと忠言したが王は聞かなかった。

引き続き燕王は蕭県を攻略し、淮河の守兵を破る。

四月、平安は小河に宿営し、燕の兵は河北を占拠した。

総兵官であった何福は力戦して燕将・陳文を斬り、平安は勇戦して燕将・王真を包囲した。

王真はからだに十あまりの傷を被り、馬上にて自ら首をはねた。

平安はますます進撃し、燕王と北坂で相見えた。

平安の振るう矛がほとんど燕王に及ぶ。

そのとき燕の番騎指揮の王騏は馬を躍らせ突入し、燕王はかろうじて脱出することができた。

燕将・張武が苦戦しつつもなんとか敵を退けたが、燕軍はついに勝てなかった。

 


【原文】

四年正月、燕の先鋒李遠、徳州の裨将葛進を滹沱河に破り、朱能もまた平安の将賈栄等を衡水に破りて之を擒にす。

燕王乃ち館陶より渡りて、東阿を攻め、汶上を攻め、沛県を攻めて之を略し、遂に徐州に進み、城兵を威して敢て出でざらしめて南行し、三月宿州に至り、平安が馬歩兵四万を率いて追躡せるを淝河に破り、平安の麾下の番将火耳灰を得たり。

此戦や火耳灰矟を執って燕王に逼る、相距るたゞ十歩ばかり、童信射って、其馬に中つ。

馬倒れて王免れ、火耳灰獲らる。

王即便火耳灰を釈し、当夜に入って宿衛せしむ。

諸将これを危みて言えども、王聴かず。

次いで蕭県を略し、淮河の守兵を破る。

四月平安小河に営し、燕兵河北に拠る。

総兵何福奮撃して、燕将陳文を斬り、平安勇戦して燕将王真を囲む。

真身に十余創を被り、自ら馬上に刎ぬ。

安いよいよ逼りて、燕王に北坂に遇う。

安の槊ほとんど王に及ぶ。

燕の番騎指揮王騏、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。

燕将張武悪戦して敵を却くと雖も、燕軍遂に克たず。

 

【感想メモ】
・平安つええええ(小並感)
南軍(建文帝軍)では割と出ずっぱりで結構負けたりもしてるがすぐに軍を立て直してくる印象。
この時点で南軍の武将で頼りになるのはこの人くらいじゃあるまいか。

・ここでの「番将」「番騎」の「番」は漢和辞典によると異国人という意味のようだ。

火耳灰と王騏というのはモンゴル兵?