日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴【運命】46

【訳】

ここにおいて南軍は橋南にとどまり、北軍は橋北にとどまり、対峙して数日すると、南軍は兵糧が尽きて、蕪を採って食べはじめた。燕王はいった、南軍は飢えたぞ、さらに一二日して食糧が集まったらこれを破るのは簡単ではない。

そこで千人余りの兵で橋を守らせ、ひそかに軍を移動させ夜半に兵に河を渡らせて敵の背後に回り込んだ。

その時、徐輝祖の軍が到着した。~斉眉山で戦った。昼から夕方になって勝敗~燕の勇将・李斌が戦死した。燕はまた勝つことができなかった。南軍はまた勝って奮い立ち、燕は陳文、王真、韓貴、李斌らを失い諸将は皆おののいた。

諸将は燕王に説いて言った、我が軍は敵地に深く入り込んでしまいました、暑い中雨が延々と降って、ここ淮河の土地は蒸して伝染病がだんだん流行してきてます。しかし小河の東は、平野で牛や羊が多く、大麦と小麦が実っております。河を渡って土地を選んで、兵士と馬を休息させ、敵の隙を見て動いた方がよろしいかと。

これに対し燕王はいった、兵は進むだけで退くことはならぬ。勝てる形ができていながらまた北に渡ってしまったら将兵の心は離れてしまうに決まっている、お前たちの~。

そうして命令を下していった、北に行こうとする者は左にいけ、北に行かないものは右に行け。諸将の多くは左に行った。燕王は激怒していった、お前たち~

このとき燕軍の勢いは、実に危うくまさに崩れようという危機にあった。孤立無援のまま長い距離を駆けて深く敵地に入ってしまいどこにも友軍はいない、北平からは遠く離れて、しかも拠点の周囲はみな敵ばかりである。燕軍は戦って勝てばいいが、勝たなければ自らを支えるものがない。こうした中、当面の敵である何福は兵が多く力戦しており、徐輝祖は堅実で隙がなく、平安は勇猛でしかも意表をついてくる。燕軍は再戦してまた負けて、猛将も多く戦死し、多くの者はみな不安になっている。戦おうと欲しても力が足らないし、北に帰ろうとすればこれまでの戦功はすべてなかったことになり、なんとも振るわない形勢になってしまいそうである。将兵を無理に戦わせようとすれば人心は離れ、不測の事態を生ずるかもしれない。諸将が争って左に行くのを見て燕王が怒るのも無理はなかった。

しかしこのときの時勢はただ撤退してはならぬということのみであって、燕王が周囲の者の意見を受け入れずに敢然として奮戦しようとしたのは、洞察力・決断力ともに実に豪傑の気性であり、腹の据わったところを見せた以外の何物でもない。

この時、座に朱能がいた。朱能は張玉とともにはじめから燕王の腹心であった。諸将のうちでもっとも若かったが、よく戦い功を立て、人望を集めていた。

身長は八尺で年齢は三五歳、武勇に優れ心広く、孝行かつ人情に厚い人柄であった。

朱能はこの事態を嘆いて立ちあがり、剣に手をかけ言った、諸君、奮起しようではないか、昔、漢の高祖は十回戦って九回敗れたが遂に天下をとった、挙兵して連勝したというのに、こんなことで挫けて帰ったらどうやって臣下として仕えるというのか。諸君は武勇に優れ誠実である、ここで撤退なぞするわけにはいかない、そうではないかと言ったので、諸将は互いに顔を合わせ反論する者はいなかった。かくして全軍、心機一転して、命がけで王に従おうと決意した。

朱能は後に龍州に死んで、東平王の爵位を与えられたが、これは決して偶然ではない。

 

※訳文中の〜は不明箇所。

 

【原文】

是に於て南軍は橋南に駐まり、北軍は橋北に駐まり、相持するもの数日、南軍糧尽きて、蕪を採って食う。燕王曰く、南軍飢えたり、更に一二日にして糧やゝ集まらば破り易からずと。乃ち兵千余を留めて橋を守らしめ、潜に軍を移し、夜半に兵を渡らしめて繞って敵の後に出づ。時に徐輝祖の軍至る。甲戌大に斉眉山に戦う。午より酉に至りて、勝負相当り、燕の驍将李斌死す。燕復遂に克つ能わず。南軍再捷して振い、燕は陳文、王真、韓貴、李斌等を失い、諸将皆懼る。

燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土湿蒸に、疾疫漸く冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二麦まさに熟せんとす。河を渡り地を択み、士馬を休息せしめ、隙を観て動くべきなりと。

燕王曰く、兵の事は進ありて退無し。勝形成りて而して復北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣するのみと。

乃ち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に趨る。王大に怒って曰く、公等みずから之を為せと。

此時や燕の軍の勢、実に岌々乎として将に崩れんとするの危に居れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠にして、而も本拠の四囲亦皆敵たる也。燕の軍戦って克てば則ち可、克たずんば自ら支うる無き也。而して当面の敵たる何福は兵多くして力戦し、徐輝祖は堅実にして隙無く、平安は驍勇にして奇を出す。我軍は再戦して再挫し、猛将多く亡びて、衆心疑懼す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功尽く廃りて、不振の形勢新に見われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離、不測の変を生ずる無きを保せず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦宜なりというべし。

然れども此時の勢、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看る明確、事を断ずる勇決、実に是れ豪傑の気象、鉄石の心膓を見わせるものならずして何ぞや。

時に坐に朱能あり、能は張玉と共に初より王の左右の手たり。諸将の中に於て年最も少しと雖も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長八尺、年三十五、雄毅開豁、孝友敦厚の人たり。慨然として席を立ち、剣を按じて右に趨きて曰く、諸君乞うらくは勉めよ、昔漢高は十たび戦って九たび敗れぬれど終に天下を有したり、今事を挙げてより連に勝を得たるに、小挫して輙ち帰らば、更に能く北面して人に事えんや。諸君雄豪誠実、豈退心あるべけんや、と云いければ、諸将相見て敢て言うものあらず、全軍の心機一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。

朱能後に龍州に死して、東平王に追封せらるゝに至りしもの、豈偶然ならんや。

 

【感想メモ】

・1402年4月斉眉山の戦い。南軍は北軍を連破。徐輝祖、普通に強いな。

・連敗し、暑くじめじめしたアウェーでの戦いに弱気になった諸将は北に引き上げて様子見しようというが燕王は許さない。踏ん張りどころである。

・朱能が諸将を説得。燕王はつくづくいい部下に恵まれている。