日日遊心

幸田露伴の歴史小説【運命】の現代語勝手訳その他。Done is better than perfect.無断転載お断り。

幸田露伴【運命】43

七月、平安は兵を率いて真定より北平に到り、平村に止営した。
平村と城との距離は五十里にすぎない。

これを知った燕王の世子は危険を知らせた。
燕王は劉江を召して策を問うた。
劉江は兵を率いて滹沱河を渡り、旗幟を張り、たいまつを挙げ、大いに軍容を盛んにした上で平安と戦った。
平安の軍は敗れ、平安は軍をかえし真定へ逃げた。

方孝孺の門人である林嘉猷は計略を用いて燕王父子を互いに疑わしめようとした。
計略は行われずそのまま中止となった。
盛庸らは、大同を守っていた将軍・房昭に決起を促し、兵を率いて紫荊関に入り保定の諸県を攻略し、兵を易州の西水寨に駐屯させ、地形が険阻なのを利用して持久戦の計画を立て、北平を窺わしめようとした。

燕王はこれを聞いて、保定を失ったら北平が危ないと、ついに命令して軍を返した。

八月より九月まで燕兵は西水寨を攻め、十月には真定の援軍を破り、合わせて西水寨も破った。
房昭は走って逃げた。             
十一月、建文帝は駙馬都尉・梅殷に淮安を守らせた。
梅殷は太祖の娘の寧国公主と結婚していた。
太祖が崩御しようとするとき、その傍らにいて顧命を受けた者は、実に帝と梅殷であった。
太祖は梅殷に語られて、おまえは老成して忠誠心があるから幼主を託そう。
誓書と遺詔を出してお授けになり、敢えて天に背く者あれば私のためにこれを征伐してくれと言い終わってお亡くなりになった。
燕の勢いが次第に強くなり、諸将は観望する者が多かった。

そこで淮南で兵を募り、兵士を合わせて四十万と号し、梅殷に命じてこれを統率させ、淮上にとどまって、燕軍をさえぎった。
燕王はこれを聞き梅殷に書をやって、南京で香を捧げたいので道をあけて欲しいといった。
殷は答えていった、皇考は進香を禁じている、これに従う者は孝で、従わない者は不孝だとして、使者の耳と鼻を削ぎ、厳しく燕王を退けた。
燕王は怒ること甚だしかった。

 

【原文】

七月、平安兵を率いて真定より北平に到り、平村に営す。

平村は城を距る五十里のみ。

燕王の世子、危きを告ぐ。

王劉江を召して策を問う。

江乃ち兵を率いて滹沱を渡り、旗幟を張り、火炬を挙げ、大に軍容を壮にして安と戦う。

安の軍敗れ、安還って真定に走る。 

方孝孺の門人林嘉猷、計をもって燕王父子をして相疑わしめんとす。

計行われずして已む。 

盛庸等、大同の守将房昭に檄し、兵を引いて紫荊関に入り、保定の諸県を略し、兵を易州の西水寨に駐め、険に拠りて持久の計を為し、北平を窺わしめんとす。

燕王これを聞きて、保定失われんには北平危しとて、遂に令を下して師を班す。

八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、併せて寨を破る。

房昭走りて免る。 

十一月、駙馬都尉梅殷をして淮安を鎮守せしむ。

殷は太祖の女の寧国公主に尚す。

太祖の崩ぜんとするや、其の側に侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。

太祖顧みて殷に語りたまわく、汝老成忠信、幼主を託すべしと。

誓書および遺詔を出して授けたまい、敢て天に違う者あらば、朕が為に之を伐て、と言い訖りて崩れたまえるなり。

燕の勢漸く大なるに及びて、諸将観望するもの多し。

乃ち淮南の民を募り、軍士を合して四十万と号し、殷に命じて之を統べて、淮上に駐まり、燕師を扼せしむ。

燕王これを聞き、殷に書を遣り、香を金陵に進むるを以て辞と為す。

殷答えて曰く、進香は皇考禁あり、遵う者は孝たり、遵わざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻を割き、峻厳の語をもて斥く。

燕王怒ること甚し。