幸田露伴【運命】41
【訳】
旗は世子のもとに届いた。
この時、降将の顧成がその場にいて旗を見た。
顧成の先祖は船頭であった。
顧成は偉丈夫かつ勇敢で、怪力の持ち主であり、全身の花文は異様で人を驚かせた。
太祖に従い、そのそばを離れなかった。
昔太祖に従った時、その船が川を渡ろうとして座礁した。
すると顧成は船を背負って浅瀬を渡った。
また鎮江の戦いで捕らえられ縛りあげられたが、勇躍して縄を断って、刀をもった者を殺して脱出し、直ちに衆を導いて城を落としたことがあった。
その勇力を察すべきであろう。
後に戦功を積み重ね将軍となって、蜀を征伐し雲南を制圧し蛮族を平らげ、その勇名は世に知れ渡った。
建文元年、耿炳文に従い燕と戦った。
耿炳文は敗れ、顧成は捕らえられた。
燕王は自らその縄をといて言った、先祖の霊がおまえのような猛将を私に授けてくれたと。
そして挙兵した理由を語った。
顧成は感激して心を燕王に帰し、ついに世子を補佐し北平を守ることになった。
だがたいていは作戦を立てるだけで、最後まで将軍として戦うことを承諾せず、兵器を賜ってもこれを受け取ろうとはしなかった。
おそらく中年になってから書を読み何か得るものがあったのが原因であろう。
顧成もまたすぐれた人物であった。
後に世子の高熾が群小のために苦しめられたときはこんな風に言った、
〜
万事は天にあります、小人相手に心を砕いてはなりませぬと。
識見が高いというべきだろう。
顧成はこのような人であった。
燕王から送られてきた旗を見ると、心を痛めなんと勇敢なことかと涙を流して言った、私は若いときから従軍して今は老いてしまったが多くの戦場を見てきた、だが今までこんなのを見たことがないと。
水滸伝に出てくる豪傑のような顧成にこんなことを言わせたのだから、燕王も悪戦苦闘したというべきであろう。
そして燕王が豪傑の心をもっているというのは実に王のこの勇往邁進、危険を冒して避けない雄風にこそあった。
※訳文中の〜は不明箇所。
【原文】
旗世子の許に至る。時に降将顧成、坐に在りて之を見る。
成は操舟を業とする者より出づ。
魁岸勇偉、膂力絶倫、満身の花文、人を驚かして自ら異にす。
太祖に従って、出入離れず。
嘗て太祖に随って出でし時、巨舟沙に膠して動かず。成即便舟を負いて行きしことあり。
鎮江の戦に、執えられて縛せらるゝや、勇躍して縛を断ち、刀を持てる者を殺して脱帰し、直に衆を導いて城を陥しゝことあり。
勇力察す可し。
後戦功を以って累進して将となり、蜀を征し、雲南を征し、諸蛮を平らげ、雄名世に布く。
建文元年耿炳文に従いて燕と戦う。
炳文敗れて、成執えらる。燕王自ら其縛を解いて曰く、皇考の霊、汝を以て我に授くるなりと。
因って兵を挙ぐるの故を語る。
成感激して心を帰し、遂に世子を輔けて北平を守る。
然れども多く謀画を致すのみにして、終に兵に将として戦うを肯んぜす、兵器を賜うも亦受けず。
蓋し中年以後、書を読んで得るあるに因る。
又一種の人なり。
後、太子高熾の羣小の為に苦めらるるや、告げて曰く、殿下は但当に誠を竭して孝敬に、孳々として民を恤みたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意を措くに足らずと。
識見亦高しというべし。
成は是の如き人なり。
旗を見るや、愴然として之を壮とし、涙下りて曰く、臣少きより軍に従いて今老いたり、戦陣を歴たること多きも、未だ嘗て此の如きを見ざるなりと。
水滸伝中の人の如き成をして此言を為さしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。
而して燕王の豪傑の心を攬る所以のもの、実に王の此の勇往邁進、艱危を冒して肯て避けざるの雄風にあらずんばあらざる也。
【感想】
相変わらず訳は難しい。
漢和辞典とネット頼み。